熱気が部屋を包んでいる。クーラーは相変わらず、冷えない風を流している。ここはセルジオのオフィス。ティナはソファーに座り、足を組み、惚けたように天井を見ていた。どこか特定の場所を見つめているという訳でもなく、窓の外に視線を移したり、壁のヒビを目で追ったりと、とても暇そうな顔をしている。その横では、ジョンが目を閉じ、うつらうつらと頭を揺れ動かして、居眠りをしている。窓からは日の光が入り込み、ただでさえ暑い室内をさらに暑くしていた。
あれから2日が過ぎていた。ジョンの受けた傷はまだ完全には治ってはいないが、ナノマシンによる高速治療により、見る見るうちに回復していた。結局、モデルファイブを操っていた人間や、それらしき外部通信は見られず、今はモデルファイブの脳が解析されている。ティナ達が聞いていたのは、モデルファイブが「人間の脳を持つアンドロイド」であったということだけだ。それ以降のことは調査中とのことで聞かされていない。
『ごめんなさい。私も詳しくは聞いてなくて…』
ティナの脳裏に、エルナの声と、申し訳なさそうな顔が浮かぶ。エルナは自分の責任でもないのにティナに謝罪した。
『あの子、きまじめだからねえ…』
体中から力を抜き、リラックスしながら、ティナは何度目かわからないため息をついた。
ガチャリ
ドアの開く音が響き、ティナはドアに顔を向けた。アメリアとジェームスが部屋に入ってくる。アメリアはだいぶ元気になったようで、毛並みも美しく、映画で見た美人に戻っていた。
「こんにちは。お2人がこちらにいると聞いたので、ちょっとお邪魔を…」
2人は、ティナとジョンの向かい側に座る。物音にジョンが目を覚まし、ぼーっとした顔を上げる。アメリアとジェームスが来たということに気付くと、すぐに身なりを整えた。
「まず、君たちに礼を言わせてほしい。ありがとう」
ジェームスが頭を深々と下げた。
「今回のことで、君たちには本当に助けられた。感謝してもしきれないよ」
「いやいや。こっちこそ、貴重な体験が出来たよ」
ジェームスの言葉にティナが応える。
「今回のお礼だ。受け取ってくれ」
ジェームスは、懐から出した小切手に値段を書き入れ、ティナの前に置いた。ゼロが三つ並んでいる。ジョンが値段を見て目を丸くした。
「1200ドルって、こんなもらっていいの?」
ティナが小切手を確認しながら聞いた。
「ああ。事務所の方から、正式に出してくれた。それはもう君の物だよ」
「ありがとう。大事に使わせてもらうわ」
財布を出し、その中に小切手を入れるティナ。表面上はクールを装っているが、内面は少し興奮していた。
「そうそう。アメリアから君達に、プレゼントがあるそうだ。アメリア、渡してあげてくれ」
ジェームスがアメリアの方を向き、アメリアが持っていたハンドバッグからプラスチックのケースを取り出した。中に音楽ディスクが入っているのが解る。つけられた帯には「失った妹へのレクイエム」という言葉が書かれている。
「私、音楽活動に戻ることにしました。これは新曲を入れたディスクです。受け取ってください」
アメリアがにっこり笑う。
「女優活動と、音楽活動、両方を行うそうだ。これからが期待できるよ。私の仕事も、彼女の仕事も、格段に増えそうだがな」
めがねをあげて、嬉しそうにジェームスが言った。これからの前途は多難であろうが、2人はそんなそぶりを一つも見せない。
「がんばってね。応援してるよ」
ジョンがにこにこと笑いながら言った。
「さて、と。済まないが、これでもう失礼するよ。実はこれから、バンドメンバーと打ち合わせでね」
時計を見てジェームスが立ち上がった。
「まだ来てから3分も経ってないのに?」
「ええ、ごめんなさい。ちょっと寄っただけです」
アメリアがジェームスに続いて立ち上がる。
「じゃあ、ありがとうございました。もしライブや試写会をすることになったら、チケットを送ります。それでは、また」
アメリアが本当に嬉しそうな顔で言い、2人は部屋から出ていった。
「行っちゃったね」
ジョンが我慢していたあくびをする。
「アメリアさん、やっぱきれいだったなあ。ティナももう少しだけでいいから気をつければいいと思うよ」
ジョンがいつになく真顔で言う。ティナは少年のその言葉に、ちぐはぐなおかしさを覚えて、くすくすと笑った。
「あたしはこのままだからいいんでしょ?」
「いやいや、もう少し努力すればよくなるよ?出来ないわけじゃないんだから…」
そんなことを言いながら、ソファーから立ち上がり、外をちらと見るジョン。窓の外には、切り取ったように、アドラシスコの街が見える。人々はこの街で生まれ、暮らし、そして死んでいく。アドラシスコに、このアメリカに生まれて、自分は幸せだっただろうか。
『歌うって言ってたアメリアさんは幸せそうだったなあ』
同じこの空の下に住む父母のことを忘れたわけではない。父母から離れて生活して、既に数週間が経っている。この選択は正しかっただろうか。それとも…
「何言ってんの。ったく、とんだちびっこギャングだね。今からすけこましの本領発揮かい?10近く年下に口説かれたのなんか初めてだね」
感傷に浸っていたジョンの気持ちを、ティナの言葉がうち砕いた。下品な冗談の織り交ぜられた言葉に、毛を逆立たせ、赤面する。
「馬鹿!口説いてない!ティナこそめそめそ泣いてたじゃないか!」
「なにさ、自分のために泣いてくれたお姉さんに、そんな口聞くのかい?あたしは悲しいよ、ジョン。涙がこの街を洪水にしてしまうよ。ううう…」
あからさまな泣き真似をするティナに呆れるジョン。思わずため息が出る。
「なんだよ、もういいよ…」
一人で部屋を出ようとしたジョンを、ティナは後ろから抱き上げた。体が宙に浮く。腕の中でぎゅっと抱きしめられ、ティナの体温が伝わる。ジョンは一瞬抵抗するか迷ったが、何もせずただ抱かれた。
「はは、ごめんよ。あんまりかわいいもんだから、ちょっといじめたくなっちゃった」
「嘘ばっかり。からかって楽しんでるんでしょ?」
「信じてもらえないかな。こういうのはどう?」
ジョンが何か言う暇もなく、ティナは口をジョンの口に重ねた。ジョンの口が暖かくぬめった舌にこじあけられ、歯並びを確認するように口の中を舐め回される。
『う、嘘ぉ…』
現実感のない幸福感がジョンを包んでいる。まるで夢を見ているかのようだ。目を開けていると恥ずかしい気がして、目を閉じる。体中に電気が走って何もできない。しばしの後、2人の口は離れ、ジョンは床に優しくおろされた。
「さて。金も入ったし、飯でも食いに行こう。美味いステーキを食べさせる店、知ってるんだ」
ティナが何事もなかったかのように、ドアをあけて外に出た。彼女にとって、今の行為はありふれたものなのだろうか。それとも、特別なことなのだろうか。
「なにしてるの?行くよ?」
「あ、うん…」
ティナに急かされ、後に続くジョン。
『俺、今の一瞬のことを、いつまでも忘れない』
そんなことを考えながら、ティナの後ろをついていった。心臓が早鐘のように動き、体が思うように動かない。それを知ってか知らずか、ティナは後ろを振り向き、妖しくほほえんでみせた。
(終)
前へ
Novelへ戻る