『えぴろーぐ』



 こつん
「あたっ」
 自宅アパートの居間で、勉強をしていた竜馬の額に、何か固い物がぶつかった。拾い上げてみると、桜の絵が彫られたガスライターだ。彼は清香という姉と、2人でアパートで東京暮らしをしている。彼女がタバコもどきを吸うため、ライターを使うのだ。どうやらこれは、彼女の物らしい。
「どうした?」
 突然声を出した竜馬に、座布団を二つ折りにして寝転がっていた修平が目を向ける。
「ライターが落ちてきた。ったく、姉貴も片づけして欲しいよ」
 竜馬は、それが乗っていたであろう棚に、ライターを戻した。今、部屋には竜馬と修平の2人しかいない。こうしてアパートに修平が来ているのは、春休みの宿題を終わらせるためだと言っているが、先ほどから宿題をしているのは竜馬だけだ。
「少しずぼらなところもあの人の魅力だろ。久々にあいに来たのに、いないんだからよー」
 悔しそうな顔で、修平が漫画のページをめくる。清香に惚れている彼は、定期的に清香の顔を見たくなる周期が来るらしい。ちょうど、今日がその日だったようだ。
「勉強が全然捗らない。ダメだな」
 竜馬が窓を開ける。3月末の空は青く、どこからか花の香りが漂ってくる。爽やかな空気を、竜馬は胸いっぱいに吸い込んだ。
「こうしてると、あんときのことが夢だったみたいに感じるぜ」
 読んでいた漫画を閉じた修平が、勢いをつけて体を起こす。
「夢みたいなもんだろ」
 座り直し、ノートにシャープペンシルを走らせ、竜馬が返事をした。
「あんな強烈な体験を、夢の一言で片づけるのは惜しいけどな。結局、俺のスクーターも、お前の自転車も、新品になって帰ってきたし、まずはよかったよかっただぜ」
「ああ。俺の自転車が、まっぷたつになっても海に浮かんでいるのを見たときには、軽く感動したね。ありゃ1年間は忘れられんわ」
「1年間だけかよ。安い思い出だなー」
 竜馬の、皮肉めいた物言いに、修平が苦笑した。
「それより、お前も宿題しろよ。そのために来たんだろ?」
 不機嫌に竜馬が言った。春休みの宿題は一つも終わっていない。やっていないのだから、当然と言えば当然だろう。竜馬にせかされて、修平もノートを開いた。
 あの出来事。宇宙船事件があってから、もう3日になる。海に降り立った宇宙船は、数台の自転車を被害に出しただけで、特に破損もせずに終わった。落ちたところは東京湾の近く。オート着陸プログラムのおかげだという話だ。水に降りたのだから、着水プログラムではないのかと思った竜馬だったが、そのときにはそれを口に出す暇もなかった。
 ライドラックとロッカから、しっかりと謝られた6人は、船が正式に入港した後に船を降ろされた。なぜ日本人の少年少女が乗っていたか、港で起きた騒ぎは何だったのか、説明する義務が生じたが、それは船員が口裏を合わせてなんとか事実を隠蔽した。今更何かを言う気も起きなかった竜馬は、適当な相づちでその場を凌いだ。アリサが怒り、修平がつまらないジョークを言う。真優美が泣き、美華子は無口に不機嫌で、恵理香がぶつぶつと文句を言う。いつもと、何も変わらない、天馬高校1年生の姿が、そこにあった。
 結局、竜馬達は、そこで起きたことについて何も言わなかった。清香は何も聞かず、少し竜馬を叱責しただけで終わったが、他の友人達は大変だったらしい。特に、長い間家を空けたアリサは壮絶で、父と母にこってり絞られた様子だ。
「あのとき見た地球、きれいだったよな」
 シャープペンシルを握り、修平がぼんやり言った。
「俺はきれいだとか思う余裕はなかった」
「余裕なかったか。ま、外に出てたんだし、しょうがないか。俺はエンジンルームで右往左往してたから、まだ余裕あったんだ。真っ赤に燃えるエンジンの向こう側に、青い地球が見えたんだ。一部白くてさ」
 修平に言われた竜馬は、そのときの様子を思い出した。眼前に広がる、青く大きな球。もし、ちゃんとした時に見ていたのならば、美しいと感じたのかも知れない。が、今となっては、それを確かめるすべはない。
「何はともあれ、みんな生きて帰ってきたし、アリサちゃんも記憶が戻ったし。よかったよかった」
 この男の思考は、やはり単純なようだ。あれだけの強烈な体験を、ハッピーエンドで締めている。竜馬は何かを言う気もなくなり、何も言わずにペンを進ませた。
「そういや、さ」
「ん?」
 向かいの修平が、手元の紙を折りながら、口を開いた。
「あのとき、お前、お父さんとか言ったろ?あれ、どういう意味だったんだ?」
 正方形に近い形に、ルーズリーフを切って、修平が器用に折っている。彼が何のことを言っているか、竜馬はすぐに思い出した。ブリッジで銃を突きつけて言ったあの言葉のことだ。
 竜馬以外のみんなは、ライドラックがアリサを娘の代わりにしようとしていたことを知らない。アリサ本人すら、ともすれば第2の人生を歩む羽目になったかも知れないことを知らないのだ。誰にも言っていないのだから、当然といえば当然か。
「さあて、どういう意味だったのかね」
 竜馬の視線が空中をさまよった。カレンダーの和服美人と目が合う。修平はと言えば、ルーズリーフで鶴を折り終えて、ひょいとテーブルの上に置いた。
「んだよ、覚えてないのかよ」
「覚えてないもなにも、言った覚えすらないからなあ」
 修平の追求に対して、あえて竜馬は事実をぼかした。言う必要のないことだ。もう終わったことについて、あれこれ取り立てて言うつもりもない。
「ま、あんときは必死だったしな。それより、昼飯食いに行こう。駅前の月低屋で、麺類大盛り無料やってるって。浮く金で、帰りに甘味処もみじで鯛焼き食おうぜ」
 シャープペンシルを置いた竜馬は、携帯電話と財布、そして家の鍵を手に取った。修平は、腑に落ちない顔をしていたが、竜馬の後に続いて部屋を出た。
「そういやさー。今年卒業のコイレ先輩、隣駅で無茶苦茶なケンカして、4人のしちまったらしい」
「マジかよ。コイレ先輩って確か、お前が一時期弁当もらってた人だよな?爬虫人の」
「ああ。あの人、危険な感じ入ってると思ってたら、やっぱ筋金入りのバトルジャンキーでさ。なんでも、天馬大学に入ったとかで…」
 竜馬と修平が、他愛ない話で盛り上がる。と、美華子がギターの袋を背負って歩いているのに出くわした。
「美華子さん。ギター?」
 美華子の後ろ姿に、竜馬が声をかけ、美華子が振り向く。
「ん。河原で思いっきり鳴らしてきた。これから昼ご飯買いに」
「ちょうどいい、月低屋行かね?俺ら昼飯ラーメンにするつもりなんだ」
「いいね。行く」
 ギターの袋を、ずり落ちないように背負いなおし、美華子がついてきた。駅へ出るべく、3人は小道を通り、大通りに出た。
「あー、竜馬君」
 横から声をかけられて、竜馬が振り返った。真優美と恵理香、そして少し遠いところに、アリサが立っている。3人とも、ゲームセンター巡りでもしていたのか、プライズ品と思われる大きな袋を持っていた。
「遊びに?」
「うむ。多く取りすぎてしまったよ。ようやく上手くなってきた。修平にはこいつをやろう」
 修平に問われた恵理香が、袋を一つ渡した。中には、三白眼をしたキジ虎猫のぬいぐるみが入っていた。
「おー、ありがとう。こういうの好きなんだわ」
 ぬいぐるみをくるくる回し、修平が喜ぶ。
「これから昼ご飯なんだ。あんた達は?」
「あたしたちもご飯ですよ。どこ行くか決めてませんけど…」
「私たち、月低屋でご飯って流れなんだけど、一緒にどう?」
 美華子が真優美と話を始めた。この調子ならば、彼女たちもついてくると言うだろう。6人集まって食事をとるのは久しぶりだ。竜馬は後ろに一人佇むアリサの方に近づいた。
「アリサ」
 何かの看板を眺めていたアリサに、竜馬が声をかけると、アリサはふいと竜馬の方へ向き直った。
「見て、竜馬」
「ん?」
 アリサが見せるのは、布で出来た指輪。もうぼろぼろで、色あせてしまっている。
「これね。もう薬指と小指にしか入らないんだ。本当に結婚指輪だよね」
 そういって、アリサは指輪を薬指にはめてみせた。そのとき使ったのは、キャラクター物のハンカチだったはずだが、もう何が描かれているかわからないほどに、色落ちしている。
「古いなあ」
「もう10年以上前よ」
 竜馬がアリサの手を取り、指から指輪を抜き取る。指に生えた毛が、ふわっと竜馬の指をなぞった。
「どうしたの?」
 竜馬は手のひらに指輪を置いた。するり、と手を動かす。と、指輪は手のひらから消えてなくなった。
「ああー!」
 アリサが大声をあげた。手先の器用な父から、小さい頃に習った、ただ一つの手品。それを使い、竜馬はアリサの指輪を、手の中から消してしまった。
「か、返してよ!返してってば!」
「ないな。ない」
 つかみかかってくるアリサを、竜馬が適当にあしらった。怒って噛みついてくるかと思い、竜馬は少し身構えたが、アリサはただ悲しそうに肩を落とすだけだった。
「竜馬、なんでそんな意地悪するの?やっぱり、私のこと、嫌いだから…?」
 泣きそうな声でアリサが言う。そのアリサの目の前に、竜馬が拳を差し出した。そして、拳を、アリサの目の前で開く。
「あ…!」
 びっくりした顔で、アリサが竜馬の手と顔を何度も見直した。竜馬の手に握られていたのは、銀色に輝く指輪だった。
「竜馬、これ…」
「さすがにいつまでも布の指輪じゃダメだろ?えーと、その、宝飾店行って、金属アレルギーの話とか、サイズの話とか、参考にして作ってもらったから…今度はガラス殴って壊したりするんじゃないぞ?」
 そっと、アリサの手に指輪を握らせる竜馬。やはりというべきか、なぜかというべきか、とても恥ずかしい。目を合わせる事も出来ず、竜馬が顔を背ける。そこで、竜馬がはっと気がついた。いつもなら、喜んだアリサが、尻尾を振りながら抱きついてきて、骨折一歩手前まで抱きしめられてしまう。
「ありがと…」
 が、予想に反して。アリサはおとなしく、そして慎み深く、竜馬に礼を言っただけだった。その顔に、竜馬がどきりとした。1年前、小学校時代の思い出を思い出さないまま、アリサに初めてあった時と同じ顔をしていたのだ。
「さっそく、着けさせてもらうね」
 さっきまで、布の指輪をつけていたその指に、アリサが指輪をはめた。きらり、きらりと、陽光を反射して光る指輪に、アリサが目を細める。
「あれ、そういえばお前。ライドラックにもらった指輪は…」
「返したわ」
 くるくると、指輪を日にかざしながら、アリサは竜馬の言葉に応えた。
「あれは、あの人にとって、娘さんだもの。娘になれないのに、もらうわけにはいかないわ」
 前の4人が歩き出した。その後ろに続いて、アリサと竜馬も歩き出す。
「なんだ、知ってたのか」
 言わない方がいいと、そのことを黙っていた竜馬は、少し拍子抜けした。アリサは既に、そのことを知っていたのだ。
「ええ。私はあの人の娘にはなれない。お父さんもお母さんもいるし、竜馬もいるし。私を包む、多くの人々がいるから」
 少し辛そうなアリサ。彼女が何を考えているか、竜馬は深くは理解出来ないが、なんとなくはわかった。
「じゃあ…もし、誰もいなかったら、娘になってたって?」
 ふと感じた疑問を、竜馬はそのまま口に出した。もし彼女を引き留めるものがなければ、彼女はどうなっていたのか。そんな、どうでもいいことが、気になって仕方がない。
「バカなこと言わないで。私を大事だって言ってくれる素敵な人が、ここにいるじゃない」
 ぎゅっ
 アリサが腕を回し、竜馬に優しく抱きついた。
「今こうしてるのが事実。もし、なんてないのよ。ね?」
 耳元で、ささやくように言うアリサ。彼女の暖かなぬくもりが、服越しに竜馬に伝わった。
「そっか…そうだな。うん。俺もお前も、ここにいるもんな」
 それだけで十分だったのに、何を難しいことを考えていたのだろう。ここに、アリサがいて、竜馬がいる。そして、友人や家族、仲間がいる。それだけでよかったのだ。何も悩むことはなかったし、もしなんてことを考える必要はなかった。
「さーて。話が終わったところで、おごってくれる?私、今日は持ち合わせないの」
 腕をほどき、アリサが先行する4人に近づくように、早足になった。
「…しょうがないな。貸すだけだぞ。後で返せよ?」
「くふふ。竜馬、ありがと。やっぱ、優しくて、素敵で。誰に何を言われても、私は竜馬のことが大好きだわ」
 竜馬とアリサが軽口を叩いた。ふと、街路樹の桜に目が行く。桜は、咲く寸前まで来ていた。1輪も咲いていないはずなのに、桃色を見た気がした。
「1年。1年よ。まだ始まってないわ。これから、始まるのよ」
「ま、始める気もないけどな」
「大丈夫、その気にさせてあげるから。そういう運命なのよ」
 やんわりと否定する竜馬に、アリサが微笑んだ。どうやら、今年もアリサに振り回されることになりそうだ。高校に入り、彼女と再会した時に聞いた、あの言葉。「一生忘れられない思い出を手に入れる」だったか。既に、竜馬はその言葉通り、多くの思い出を手に入れてしまったようだ。
「運命か。そうだなあ。俺は運命について、こう考えててさ…」
 竜馬が、言葉を続けながら、道を歩く。これから大人になり、高校時代を思い出せば、きっとアリサの顔が出て来るのだろう。修平や真優美、美華子や恵理香のことも、きっと忘れることはないだろう。
 忘れられない、大事な思い出。忘れてはいけない、大切な記憶。過去は時として枷になり、時として翼になる。流れ、移ろいゆく時間。
 ここにいるのは、遠い未来に思いを馳せ、無限の可能性をしっかり握った少年少女達である。


 (終わり)



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