「さあ、竜馬、追いつめたわよ〜」
 壁際に追いつめられた竜馬に、アリサがねっとりとした声で言った。実験室が集まっている特別棟の3階、その廊下の端に、竜馬は追いつめられていた。
「もうダメかと思ってたけど、これで竜馬を惚れさせてめでたしめでたしで終わりそうね〜」
「んなわけねえだろ!俺、今回は逃げてばっかだ!それもこれも、みんなお前のせいだ!」
 竜馬はアリサの眉間に指を突きつけた。
「な、何ですって〜!何でも人のせいにするのをゆとり教育の弊害って言うのよ!」
 アリサが体をわなわなと震わせた。
「やかましい!そんな10年以上前の話されても困るわ!助けてやった恩を忘れやがって!」
「お互い様よ!私だって竜馬を助けたことあるじゃない!」
「お前の場合は別!いっつもいっつも、ワンパターンなことするんじゃねえ!大体…」
 足下に振動を感じて、竜馬は黙り込んだ。人間の足音、それもたくさんの。何が近づいているか、竜馬には手に取るようにわかった。アリサの敏感な耳にも聞こえていたようで、動きが止まる。
「かっ、隠れるところ…!」
 周りを見回しても、開いている教室はない。と、竜馬の目に、非常階段へ続く扉が目に入った。
 がちゃっ
 竜馬が手を伸ばすが早いか、アリサが扉を開けて外に転がり出した。
「あ〜ん、同じ方向へ逃げるなんて、これぞ愛の奇跡?」
「行き止まりでそこしか逃げ道がなかっただけだろ!」
 1階まで下ると、階段をふさぐように、ごちゃごちゃした物が置いてある。大半は文化祭や体育祭に使用するもので、倉庫からあぶれているものだ。仕方なく、竜馬は上へ昇り、屋上まで駆け上がった。
「たぶん、あの感じだと、ここにみんなが昇ってくるまで2分ないな…逃げ道は…」
 竜馬は広い屋上を走り、他の出口がないかを確認した。先ほどの非常階段一カ所のみ。場所によっては下へ降り、ベランダから中に入ることも可能だろうが、危険を伴う。
「こうなったら、捕まる前に、竜馬を!」
 アリサは後ろから、竜馬の背中にタックルをぶちかました。
「この期に及んでお前というやつは、まだそんなことするか!」
「これが目的なのよ!これでハッピーエンドなのよ!」
 竜馬を転がし、その上にマウントするアリサ。ポケットから薬瓶を出すと、竜馬の口に押し当てた。
「えーい!やめんか!」
 竜馬は動く片腕を使い、薬瓶を口から離す。
「あそこだ!」
 昇ってきた男子生徒が、アリサを見つけて指さした。その後ろには、殺気だった女子と、それを止めようと奮戦する修平の姿もある。
「もーあかん、死んでしまう…神様!俺にはもっと、控えめでかわいくて、羞恥心があって愛らしい女の子が似合うのに、なんでアリサなんかを近くに置いたんだ!」
 パニックになった竜馬が叫ぶ。彼の耳には、どこか遠くで鳴っている、大きな音が聞こえていた。それが耳鳴りなのか、現実なのかさえ、彼には判別がつかなかった。
「運命には逆らえないのよ!」
 アリサが薬を飲ませようとがんばりながら言った。
「くそーっ、俺は神に見捨てられたのか、運命なんて糞くらえだ!」
 ずううん!
 竜馬がもがいたそのとき、大きく地面が揺れた。校舎全体が揺れ、アリサと竜馬を追っていた生徒達が一斉に転んだ。アリサも、後ろにのけぞるようにひっくり返る。
「な、なんだ…」
 起きあがった竜馬は、辺りを見回した。今の衝撃のせいか、1人、また1人と、正気に戻った生徒達が見える。グラウンドを見れば、大きく教科書販売業者の名前が書かれた輸送宇宙機が、降り立ったところだった。今の衝撃は、この宇宙船が地面とぶつかったときのものらしい。どうやら、宇宙船の操作を誤ったようだ。
「なんという偶然、助かった、のか…運命すげえ…」
 竜馬はほっと息をつきながら、倒れているアリサを見る。薬が大きくこぼれ、その一部はアリサの口の中に入っていた。一部とは言え、かなりの量が口に流れ込んでいる。
「これはさすがに…大丈夫か?」
 薬瓶を立て直し、竜馬はアリサの頬を軽く叩いた。
「うーん…」
 アリサがゆっくりと起きあがる。しばらくははっきりしない目をしていたアリサだったが、はっと気が付いたようにスカートを押さえた。
「み、見えちゃった?うう…」
 恥じらう乙女の表情で、アリサが竜馬の顔を見上げた。
「今回は、ごめんね?私のせいで、大変なことになって…」
 口と顔を拭うアリサ。普段は見せない、しょんぼりとした表情を見せている。
「ほんとだぜ。ったく、お前というやつは…」
「うん…迷惑かけたかなって、思ってる…あ、竜馬、それは?」
 竜馬の額を見るアリサ。竜馬が手で撫でると、少し血がついている。さっきアリサにタックルされたとき、転んでついた傷らしい。
「大丈夫?」
 アリサはポケットからティッシュを出し、竜馬の傷を拭う。屋上に来ていた生徒達は、それぞれ、非常階段を下りて、戻っていった。
「いいよ、自分で出来るから」
「あ…ごめん…」
 竜馬に言われて、アリサは手を出すのをやめた。そのアリサに、竜馬は少し違和感を感じていた。先ほどまでの押しの強さもなければ、いつものような暴走もない。
「どうしたの?」
 小首を傾げるアリサ。どうやら彼女に自覚はないらしい。先ほどの光景が、竜馬の脳裏をよぎる。アリサはかなりの量の薬を飲み込んでいたと考えるのが妥当だ。だとすると、性格がおかしくなっていても不思議ではない。普段暴走しまくる性格なのが、薬によって変わっているとしたら…
「アリサ、俺のこと好きか?」
 竜馬は普段言わないような台詞を、恥ずかしさをこらえて言う。
「な、何でそんなこと聞くのよう」
 アリサが目を逸らし、尻尾をはたはたと振る。体毛がなければ、赤面した顔が見られることだろう。
「いいから。どうなんだ?」
「そ、それは、もちろん…好き、だけど…も、もう!こんなこと言わされるなんて!」
 アリサは耳をぴこぴこ動かす。
「いつもお前が言ってることじゃないか」
「え…あっ!そ、そうだけど、うう、いや、いや」
 今までの自分のことを思い出して、恥ずかしくなったのか、アリサは顔を隠した。今のアリサは、竜馬の目から見ても、控えめでかわいくて、羞恥心があって愛らしい女の子だった。
『いや、アリサだぞ?これはアリサなんだぞ?でも…』
 竜馬の理性は、アリサをかわいらしい女の子だと認めることを、必死に拒否していた。しかし、彼は本能に逆らうことは出来なかった。
「な、なあ。よければ、飯行かないか?」
 自制するより先に、竜馬はアリサを誘っていた。
「え?でも、悪いし…授業だって…」
「どうせあと6限しか残ってないし、それも自習だろ?ほら、行ってこようぜ」
 竜馬がアリサの肩に手を回す。最初はあまり乗り気な顔をしていなかったアリサだが、少ししてから、嬉しそうに微笑んでこくりと頷いた。
 結局、最後にはアリサの思惑通りになった。だが、今のアリサに、竜馬は嫌な感情は持たなかった。自分は天の邪鬼なのかも知れない、と竜馬は思った。好きと言われれば逃げ、逆に今のような状況では誘う。だが、そんなことはどうでもいい。自分の中の気まぐれが、アリサと自分を結びつけただけだ。
「私、駅前の月低屋がいいな」
 アリサは、いつもの邪な顔も、性的な行動も起こさず、ただ控えめに竜馬と腕を組んでいた。そして、彼の瞳を見つめて、にっこりと笑った。


 (続く)


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