だいぶ長い間、寝ていたような気がする。アリサはようやく意識を取り戻した。柔らかく、いい匂いのするベッドに寝かされているのがわかる。うっすらと目を開けると、ベッドの周りに白いカーテンがかけられている。
「栄養失調でっすねー。年頃の女の子が、無理なダイエットなんかするから…」
 聞こえてきたのは、特徴的な声と話し方の男性の声だ。この声が、保険医である如月愛子先生の物であることを、アリサは知っている。名前とは裏腹に、筋肉で固まった体と彫りの深い顔をした、スキンヘッドの男だ。カーテンの隙間から外を見ると、美華子、竜馬、修平の3人が如月先生から話を聞いているところだった。
「根気入れてたしね。無理してたんだね」
 美華子がふうと息をつく。呆れている様子だ。アリサは、自分が栄養失調で倒れて、保健室に運び込まれたことを理解した。恥ずかしくて、顔が熱くなる。
『無理、してたのかなあ…そう言われればそんな気も…』
 今までのことを考えるアリサ。確かに、ここ1週間、無理ばかりしていたのかも知れない。食は生命の基本だ。いくらダイエットだからといっても、食べる量を極端に減らしたのは、やりすぎだったようだ。
「あ、アリサ。目が覚めたのか」
 カーテンの隙間から覗いていることに気づいた竜馬が、アリサの名を呼んだ。
「うん。心配かけてごめんね」
 靴が見あたらない。そこにあったスリッパを履き、アリサがベッドから降りる。が、体がふらついて、上手く立ち上がれない。
「無理をしないで。ほら、氷砂糖です。全く、そんなふらふらで…」
 如月先生が氷砂糖の袋をアリサに渡した。その顔は、怒っている様子だ。ここで拒否したら、怒られると思ったアリサは、小さめの固まりを口に入れた。砂糖の甘さが口に広がる。
「じゃあ、アリサちゃんも起きたみたいなんで、後は俺らで…」
「お願いしっますね。私はこれから、職員会議に行かねばなりませんから」
「わかりました。ありがとうございました」
 白衣を羽織って部屋を出ていく愛子先生に、修平が頭を下げた。
「今何時?もしかして、もう授業終わっちゃった?」
 まだ足下がおぼつかない。ベッドに座り、アリサが聞く。
「今は昼休み。あんた、朝から4時間、ずっと寝てたんだよ」
 美華子が携帯電話を見せた。確かに昼休みの時間だ。なんとか、午後の授業は受けられそうだ。もうすぐ学年末テストで、授業を休みたくないアリサにとって、これは好都合だった。
「心配かけてごめんね。これからはもうちょっと、計画的にダイエットをするわ」
 にっこり笑ったアリサが、集った一同の顔を順繰りに見ていった。が、3人とも、俯いたり頬を掻いたり、あまりいい顔をしていない。
「えーとさ、アリサちゃん。俺ら、先生とかと話し合ったんだけど…」
「もうダイエットはやめた方がいいんじゃないかと…」
 修平と竜馬が、連続して物を言う。その横で、美華子がうんうんと頷いた。
「…どうしてよ。私、本当に太っちゃったのよ?」
 唇をとんがらせるアリサ。男性陣はダイエットに興味がないだろうから、そんなことを言うのもまだわかるが、美華子までもが同意しているのがよくわからなかった。
 がらっ
「失礼します」
 そのとき、保健室の引き戸が開いて、恵理香が入ってきた。
「アリサ、倒れたと聞いたぞ。大丈夫なのか?」
 心配そうな面もちで、恵理香がアリサの顔を覗き込む。恵理香の手が、アリサの頬を、つまんだり引っ張ったりした。
「あたた、引っ張らないでよ。大丈夫だってば。倒れたって誰に聞いたの?」
「真優美ちゃんがあちこちで言ってるんだ。だいぶ泡食った様子だったから、ひどいのかと思ったが、そうでもないみたいだな」
「ああ、真優美ちゃんが…」
 恵理香の言うことに、アリサは納得した。真優美は泣き虫で、非常に他人のことを心配する少女だ。つまらないことであっても、それを10倍も心配して、100倍も誇張した話を吹聴して回るような性格なのは、熟知している。彼女に言われたのならば仕方がないと、アリサはため息をついた。
「まさか、恵理香も、ダイエットをやめろって言ったりしないでしょうね?」
 何か言われる気がしたアリサは、先制で恵理香に睨みを利かせた。
「そのまさかだ。たった1週間で倒れて運ばれるなんて、どれだけ無理なことをしてるんだ。もうやめた方がいい」
 強い口調の恵理香に、アリサがうっと唸る。
「うん。さっき如月先生と話してたんだけどさ。倒れたアリサをおぶって来てくれたらしいんだけど、アリサ、結構軽いらしいんだ。だから、ダイエットの必要はないってさ」
「で、でも。実際、体重が増えて…」
「バカだなお前は。俺らの年齢を考えろよ」
 うじうじと言い訳を続けるアリサに、竜馬が顔をしかめた。
「私ら、成長期じゃん。ここでちゃんと食べないと、体が育たない恐れもあるから、2、3キロ太ったって、成長の範囲だってさ。」
 美華子が解説を入れる。その解説は、どうやら如月先生に聞いたもののようだ。確かに、3キロぐらいならば、成長の範囲に入っているのかも知れない。しかし…
「…でも、私も自分で太ったと思ったわ。なんだか、筋肉も落ちてる気がするもの。竜馬だって、私が柔らかくなったって思ったんでしょう?」
 アリサも負けじと言い返す。ここで言い分を認めては、今までやってきたことが無駄になってしまう。
「や、それはだな、なんというか…」
 原因となっている竜馬が、しどろもどろになりながら、アリサに弁解を始めた。
「ともかく、不健康なことには俺は反対だな。さーてと。悪いけど俺は飯行くぜ」
 うじうじしている竜馬を後目に、修平が保健室を出ていった。
「私も。次の時間の宿題終わってないから」
「ああ、そうだった。宿題のことをすっかり忘れていたよ。また後でな」
 修平の後に続くように、美華子と恵理香が部屋を出た。
「お、おい…」
 後を追いかけようとした竜馬だったが、その目の前で引き戸が閉まった。置いて行かれたことを理解した竜馬は、後を追おうとする素振りを少しだけ見せて、すぐにあきらめた。2人きりになったこの状況に、アリサがどきりとする。
「なんだよ、みんな行っちゃったよ…」
 拍子抜けした様子で、竜馬が言った。アリサの心臓が、どきどきと鳴る。
「2人になっちゃったから言うんだけどな…」
 くるりと竜馬がアリサに向き直った。
「俺、責任感じてるんだぜ?本当ならお前、ダイエットと無縁な体型してんのに、ああいう気にすること言ってさ。それにその、怒らせたみたいだし」
 いかにも申し訳なさげに、竜馬が俯いた。
「怒らせた?」
「ほら、朝、ランニングしてたろ?」
「あー…」
 アリサは怒った覚えがなかったが、それが数日前の早朝、路上での出来事だったことを、竜馬に言われてようやく思い出した。
「あれは、勝手な勘違いしちゃったことが、恥ずかしくて…実はそんなに怒ってなかったの。ごめんね?」
 素直に謝るアリサ。1年前の自分からは想像出来ないことだ。竜馬と一緒にいて、人間として成長できた気がする。
「あー、そうだったのか、うん…」
 顎に手を当てて、竜馬が視線を落とす。何か、思うところがあるらしい。
「うん、わかったよ。そうだ、お前腹減ってるだろ?昼飯まだだしな。弁当あるから、食いなよ」
 そう言って、壁に立てかけてあった鞄に手を突っ込み、竜馬が弁当箱を取り出す。どうやら、竜馬は自分の分の弁当を、アリサに提供しようとしているらしい。
「でも…」
 やはり、今までせっかくダイエットをしていたのに、もったいないという気持ちが出てしまう。弁当箱を受け取ってから、アリサは食べることを躊躇した。
「いいんだよ。また作ればいいし、パンも2個あるしな」
 その態度を、遠慮だと受け取った竜馬は、的はずれなことことを言った。鞄の中から、カレーパンを取り出し、食べ始める竜馬。恐らく、パンの方は間食のために買ってきたもので、弁当が昼食のつもりだったのだろう。
「…ありがと。じゃあ、いただきます」
 彼の気遣いが、掛け値なしに嬉しかったアリサは、少し迷った後に弁当を食べることにした。2段重ねの弁当箱、1段目には白米が、2段目にはブロッコリーやソーセージなどのおかずが入っている。箸でソーセージを摘み、口に運ぶアリサ。一体どれだけぶりに、こんなものを食べたのだろう。久々の普通食という時点で美味しいのに、竜馬の料理というのがプラスされ、まさに天にも昇る心持ちだった。
「竜馬のご飯、美味しいなあ…」
 ほろりと、正直な感想が、口をついて出た。
「そうか?自分では意識してないんだけどな」
 竜馬が恥ずかしそうな顔をした。相変わらずこの男は、他人に誉められることに慣れていないらしい。
「保健室で飯なんか食うと、小学生のころとか思い出すな。熱出した時、保健室で給食だけ食べて帰って…」
 竜馬が懐かしい思い出トークを始めた。彼の足が、足下にあった鞄にごつんとぶつかる。
 ばたん
「あ」
 鞄が倒れ、中身が散らばった。教科書やノートは、教室の机に入れてあるのか出てこなかったが、代わりに大人向けの雑誌が1冊飛び出した。
「なんだ、これ…」
 竜馬が雑誌を拾い上げ、呆然としている。表紙には、少々太めの女性のグラビア写真が使われており「これからはぽちゃめで!」だの「つまめる体の女の子」だのと、太ましい体型の女性を賞賛するキャッチコピーが踊っている。
「竜馬、もしかして…」
 その雑誌を見て、アリサは理解した。竜馬がなぜ、ダイエットをやめろと言うのかを。アリサがダイエットをする姿を見て、なぜここまで、落ち込んだのかを。
「は?え?い、いや、違うって!こんなん俺の雑誌じゃないし!」
 アリサの表情を見た竜馬が、顔を青くした。アリサの手がわなわなと震える。要するに、竜馬は自分好みの体型を維持させようとして、アリサにダイエットの中止を申し入れているのだ。あれだけ自分を振り回しておきながら…と、アリサが怒りに身を震わせる。
「よぉ〜くわかりましたわよ。ええ、よくってよ。錦原クンがそう望むのならば、いくらでも食べてさしあげますわよ!」
 がふっ、がふっ!
 箸を使い、アリサが弁当を掻き込んだ。竜馬の作った、美味な弁当だ。塩もマヨネーズもドレッシングもない、味気ないサラダだけを食べているときとは、気合いが違う。今はそれに怒りが加わって、真優美も真っ青の食欲になっていた。
「これは俺の本じゃないっつってんだろ!違うって!俺はお前の健康が…」
「あー、美味しい!あー、美味しい!」
 竜馬の言い訳を聞き流し、アリサが弁当箱を空にした。米粒一つ残っておらず、舐めたかのようにきれいだ。弁当箱を、机の上に置いたアリサは、竜馬の食べているパンを引ったくった。
「あー!てめえ!」
 背を向けてパンを噛むアリサを、竜馬が後ろから押さえ込み、パンを奪い返そうと力を入れる。それをアリサは振り払い、鞄の中に残っていたもう一つのパンも開けてしまった。
「返せよ!片方でいいから!」
「いやよ!」
 竜馬から逃げながら、アリサがパンを食べる。と、アリサを追いかける竜馬の足が、薬品棚に当たった。
 ぐぐぐ…
「う、うわ!」
 倒れてくる薬品棚を、竜馬が背中で押さえる。中の薬品瓶は、幸いなことに倒れたり割れたりはしなかったが、竜馬の背中に重さが直にかかった。
「お、重いぃぃぃ…あ、アリサ…棚を、戻すの、手伝ってくれぇ」
 今にもつぶれてしまいそうな声で、竜馬がアリサに助けを求めた。
「食べ終わったら手伝ってあげるから、待っててね〜」
「てめえー!俺の昼飯ー!あっ、あっ、瓶が倒れる!」
「知らなーい」
 そんな竜馬を放って、アリサがパンを食べ続ける。久々に食べるカレーパンの味は、とても感慨深いものだった。食という、基本的な欲求の前では、例え聖人君子であろうとも獣となるであろうと、アリサは思案した。
 後に、この成人向け雑誌が、本当に竜馬のものではなく、修平がいたずらで入れたものであったことが判明するが、それはまた別の機会に。



 (続く)


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