「…と、漫画なんかだったら、最後ストライク出したら勝ち、みたいなシチュエーションになって、結局ストライク出して勝ち、とかなんですけどねえ」
 隣のレーンを見た真優美が、ふうと息をつく。結果はアリサの圧勝。最後のアリサのターンになるまでに、美華子のスコアは68。対するアリサは、快調に進み、130。最後を投げないでも、アリサの勝ちは決定していた。そこでアリサが、スペアとストライクを1度ずつ出して、最終的なスコアは150となった。
「あー、楽しかったー」
 にこにこと笑うアリサ。手に持ったペットボトルから、スポーツ飲料を飲みながら、美華子が頷く。6人はボウリングを終え、ボウリング場から出たところだ。
「どうやら機嫌を直したらしいな…」
「ええ、そうですねえ」
 恵理香と真優美がひそひそ話をしている。アリサはなんとか機嫌を直したようだ。竜馬と抱き合っていたことも、今ならすっかり忘れてしまっていることだろう。このまま帰って、明日から何事もなかったかのように振る舞えば、アリサもそう返してくるに違いない。
「アリサ…」
 美華子が声をかけようとした、そのときだった。
 びっだあん!
「きゃー!」
 一同の歩いている先の方から、派手な音が響いた。顔を向ければ、足を滑らせたのか、一人の女性が転んでしまっている。
「大丈夫?」
 後ろからやってきた男性が、女性を起こす。
「うん…あー、いったー。マジ痛い」
「バカやってんじゃねえよ。気をつけな?」
 その様を、一部始終見ていたアリサだったが、おもむろに竜馬に近づくと、ぎゅうっと抱きついた。
「竜馬〜、ボールの投げすぎで指が痛いの〜」
「知らねえよ!ったく、よそのカップルに感化されるんじゃねえよ!」
 べしっ
 まるで虫でも払うかのように、アリサを振り払う竜馬。むっとした顔で、アリサが竜馬を睨み付ける。
「んー…なんか、忘れてるような。そもそも、なんで私は、ボウリングを…」
 はっ、とアリサが耳を立てた。すべてを思い出してしまったらしい。
「ちっ…」
 今まで、何とか面倒を回避しようとしていた美華子は、それが無駄になったことにいらだち、思わず舌打ちをした。
「あー、今、舌打ちしたでしょ。美華子、あんたは…」
 ずかずかとアリサが美華子に近寄る。だいたい、なぜアリサはこうも傲慢なのだろう。自分は嘘をついていない。別に竜馬と何かしようとしたわけでもない。なのに、こんなにも面倒くさい言いがかりをつけられ、まるで自分が悪いかのように言われ。眠いし、腕は疲れたし、アリサはうっとおしいし…
『うざい』
 ぷつん
 音を立て、美華子の中で何かが切れた。
 すぱぁん!
「きゃん!」
 美華子の平手が、アリサの頬を捉えた。乾いた音が響く。
「な…」
「え?美華子さん?」
 美華子以外の5人が、驚きの声をあげる。
「何すんのよ!怒りたいのは…」
 ぱぁん!
「あたっ!痛いじゃない!やめな…」
 すぱぱぁん!
「あん!この、バカ女ー!次叩いたら…」
 ぺしぃん!
 返事の代わりに、美華子が腰の入った強いビンタを返す。
「この…!もう怒った!」
 最初はわうわう言ってただけのアリサも、とうとう怒ったらしく。美華子の両頬を掴んでぎゅうぎゅう引っ張った。
「あ、ん、た、ねー!何調子乗ってんのよ!いい加減にしないと…」
 ぎゅうううぎゅうううう
 すぱん!ぱあん!
 女同士の争いが始まった。それも、低レベルの。アリサがこれといって憎いわけでもないし、出来ることならばすぐにでもやめて帰りたかったが、体を止められない。これだけのバイタリティがあれば、殴られてふられたときにも反撃出来たかも知れないと、美華子は痛みをこらえて考えた。
「おいおいおい、周りが見てるじゃんかよ!」
「往来でこんなことをするのはやめないか!みっともない!」
 恵理香がアリサを、美華子を竜馬が押さえつける。2人の間に修平と真優美が割って入り、距離を作った。
「竜馬、あんた…!」
 狼の顔になったアリサが、竜馬を睨み付ける。竜馬にはアリサがなぜ怒ったか、わからない様子だったが、美華子はしっかりと気づいていた。竜馬がまず美華子を止めに行ったのが気に入らないのと、竜馬が美華子を押さえるためにバストに腕を回しているのが気に入らないのだ。
「竜馬君、そんなとこ触っちゃだめですよ!」
 真優美もそれに気づいたらしい。うろたえながらも竜馬に注意をした。
「っと、ぁああ!ごめん!」
 竜馬が取り乱して腕を離す。
 ぐっ
 離れようとしたその腕を、美華子は下から抱え、逃げられないようにした。そんなに気に入らないなら、見せつけてやればいい。いい気味だ。美華子は、自分が本当に嫌らしい笑みを浮かべていることに、今更気づいた。
「ちょ…何を」
 竜馬の腕の感触が伝わる。じっとりと汗をかいているようだ。目の前にいるアリサの顔が、一瞬歪んだ。そして…。
「んああああ!」
 飛びかかってきた。さっ、と美華子がしゃがみ、アリサの拳を避ける。
 がつん!
「へぶっ!」
 その拳は、立ちっぱなしだった竜馬に衝突した。竜馬が、やけにスローモーションに地面に倒れる。
「み、美華子ちゃん!もう挑発するのはやめなって!」
 倒れた竜馬を起こして、修平が言った。殴られた竜馬本人は、死んだ目をしながら「お、おめえ、俺と一緒に世界を目指さないか…」などと意味不明なことを呟いている。
「やめないか!やめろと言うに!お前達は小学生か!」
 またケンカを始めようとしている2人を止めようと、恵理香が間に割って入る。それを、2人はぐいと横に押しやり、どかした。
「誤解だって言ってんのに。なんで聞こうとしないの?腹立つ」
「疑いようのないことしてたくせに認めもしないで…むかつく…!」
 一瞬睨みあった後、2人はお互い目掛けて飛びかかった。初撃を出したのはアリサ。腕を真っ直ぐに伸ばし、拳を美華子目掛けて叩き込む。
「ふっ!」
 肩目掛けて飛んできた拳を、美華子がサイドステップで避ける。空いたアリサの体に、美華子が肩をぶちかます。
「きゃうん!」
 よろよろ、とアリサが後ろに下がった。アリサはかなり力が強い。まともに殴り合えば、数発もらっただけで、致命傷となりえるだろう。だが、上手く受け流して避ければ、それほどの脅威でもない。
「この、よくもやったわね!」
 べしぃ!
 アリサが体を回し、膝蹴りを美華子の脇腹に入れた。
「ぐ、ひゅ…!」
 肺から一気に空気が出る。とんでもない蹴りだ。こんなものを何度も食らったら、立ち上がれなくなってしまう。ボクサーのクリンチの要領で、美華子はアリサに抱きついた。両手で締め上げるように、アリサの両腕を拘束する。
「離しなさいよ!」
「やだ。離すと殴るでしょ」
「あんただってその気だったじゃない!」
 ぐいぐいと、アリサが美華子の腕を離そうと努力するが、外れる様子はない。これだけ必死に止めているのだ。これを簡単に外されたら危ない。
「おい、竜馬、大丈夫かよ」
 半分白目をむいている竜馬の頬を、修平がぺしぺし叩いた。向かい側に真優美が立ち、泣きべそをかきながら、竜馬のことを見つめている。
「へ、へへへ、おめぇならアリーナでトップだって…」
 相変わらず、竜馬はおかしな世界にトリップしたままのようだ。意味不明なことをつぶやき、まともに話を聞こうとしない。
「ああくそ、だめだこいつ!唯一ケンカを止められそうなやつなのに!」
 竜馬の頭を離す修平。ごつんっ、と竜馬がアスファルトに頭をぶつけ、低く呻いた後に動かなくなった。
「ぐうううう!」
 アリサが力を込める。もう押さえていることは出来ない。これ以上ケンカを続ければ、かなり痛い目を見ることになるだろう。一時の苛立ちで、つまらない諍いを始めたことを、美華子は早くも後悔しはじめた。持ち前の、面倒くさいことはしたくないという気質が、ここに来て出てきたらしい。
「もうやめてよ。悪かった」
 腕の痺れを我慢して、美華子がアリサに囁く。
「悪かったなんて思ってないくせに!」
 対するアリサは、美華子の謝罪が本気だと思っていないらしい。まだ怒ったままだ。
「いやほんと。ごめん。寝不足でいらいらしてた。アリサ、話聞いてくんないし。別に竜馬のこと取ろうと思ってないから。ごめん」
「信じられない!」
「じゃあどうすれば信じてくれるわけ?」
 美華子の鋭い目に、アリサがうっ、と唸った。その気はないが、今の美華子は、かなりきつい目をしているらしい。横で見ている恵理香や修平も、美華子のその目におどおどしている。
「怒りたいのはどっちだと思ってんの?楽しくボウリングした帰りにこんなケンカして、面白いと思う?ねえ、どうすればいい?どうすれば?私は、どうすれば、いいんですか?」
 がつん、がつん、と美華子が言葉をぶつける。アリサの意図はわからないが、ようやく彼女は我に返ったようだ。怒っていた面影もなく、耳を半伏せにしている。竜馬に気がないと言えば嘘になるが、こんなケンカをしてまで主張したいわけでもない。今の美華子は、もうどうにでもなっていいという気持ちだった。
「美華子ちゃん、もう…」
「あんたは黙って」
「あう」
 仲裁をしようとした真優美を、美華子が言葉で突き放した。
「だ、だって、美華子、よくわかんないんだもん。感情とか表に出さないし…てっきり竜馬に気があるのかと…」
「じゃあ何?感情を表に出せばいいわけ?」
「そ、そうじゃないけど…ご、ごめん。仲直りしましょう。ね?ほら、この通りだから…」
 ここまで来て、アリサもケンカを続けることが得策ではないと思ったらしい。耳を伏せ、低姿勢に頭を下げる。もうこの時点で、勝負は決まっているのだろう。美華子の圧勝だ。ここで彼女が上手く立ち回れば、もう争いをせずに済むはずだ。怒りは冷めた。もうやめるのも手ではあるだろう。
「ん…」
 そのとき、美華子に邪な心が浮かんだ。ここで強いショックを与えておけば、アリサはきっと自分に絡んでくることがなくなるはずだ。そう、犬の躾はがんとやらなければならない。美華子は犬を飼ったことがないが、その基本については聞いたことがあった。
 すぱぁん!
「きゃん!」
 下げた頭を、美華子がさらに叩く。
「許さないから、絶対」
 あからさまに空気が凍った。彼女自身は、サディストというわけではない。しかし、今の美華子は、知らない人が見れば攻撃的で嫌みな女に見えることだろう。
「…え、え?」
 アリサの口が、ぽかんと開いた。美華子の言葉を理解していないような様子だ。
「許さない、って言ったの。ここまでされて、私は本気で怒ってる」
「そんな…わ、悪かったわよぅ…」
「何その謝り方。ふざけるのも大概にしたら?」
 じり…
 美華子がアリサに躙り寄った。アリサが、ずる、ずると逃げ始める。
「本気でやるから。反撃するならすれば?絶対に許さない」
 後少し手を伸ばせば、アリサに手が届くところで、美華子が立ち止まった。後ろにいる4人…正確には竜馬が気絶しているので3人。3人の視線が、危ないものを見る目になっているのは承知しているが、止まらない。
「ほ、本気?マジ?」
 冗談だと疑っているように、アリサが聞く。いや、冗談だと思いたいのだろう。
「マジ」
 ぎゅう!
 美華子の手が、アリサの耳を引っ張った。犬獣人の耳は、見かけによらず丈夫ではある。しかし、本気で引っ張れば、ちぎれてしまうことに変わりはない。一瞬で急所を捕まれたアリサは、パニックに陥った。
「ひ、ひいいいいいい!いやあああああああああ!」
 とうとう、アリサが美華子をふりほどき、全力で逃げ出した。いい気味だ、と思うと同時に、また顔がにやついた。その表情が、アリサにとっては、非常に恐怖を煽るものだったらしい。彼女の顔が、まるで悪魔でも見たかのように歪む。
「追わないと…」
 がっ
「待つんだ、ホーク!貴様はわしが助けた!今日の相手は…」
 追いかけようとした修平と恵理香の足を、竜馬が掴んだ。
「お前もいい加減目を覚まさないか!」
「竜馬、離せって!肝心な時に役に立たねえな!」
 恵理香と修平が竜馬をたこ殴りにする。殴られながらも、竜馬は2人を離そうとしないばかりか、目の色がだんだんと変わり始めた。
「あ、ああ、どうすれば…」
 涙目の真優美が、意味不明なことを言う竜馬と、それに捕まった2人を見て、おろおろし始めた。
「ごめんなさい!もうしないから許して!お願い!」
「ふざけないで。許さない」
 逃げ回るアリサを、美華子が追う。あんなに強気だったアリサが、今は逃げ回っているということを考えると、美華子は面白くて仕方がなかった。広い街の中を、ぐるぐると駆け回る。寝不足のせいか、頭痛がするが、気にしない。
「ひっ!」
 びたん!
 アリサがブロック塀に手を着く。とうとう、アリサは袋小路に追いつめられた。置いてあるのは、自動販売機と、缶を捨てるためのプラスチックのゴミ箱だけだ。アリサが逃げられないことを確認してから、美華子はゆっくりと近寄り始めた。
「こっ、来ないで!投げるわよ!」
 錯乱したアリサが、ゴミ箱に手を入れ、缶を掴む。それを無視して、美華子がじりじりと近づく。
「ひ、ひぃぃ!」
 大きな声で、アリサが叫んだ。手に持った缶を、美華子に向かって投げつける。
「わ、っと」
 美華子がひょいと避ける。と、ズボンに触れた彼女の手に、堅い感触が来た。ポケットに手を入れる。ダーツガンだ。以前、おもちゃとして受け取り、機械いじりの好きな真優美がカスタムを加えた品。弾もたっぷり入っている。
『そういえばこんなのもあったなー』
 美華子がポケットの中で、銃のセーフティを外した。
「もういやー!」
 またもやアリサが缶を投げる。
 すかぁん!
「反省してないね。同情の余地なし」
 美華子の銃が、アリサの投げた缶を撃ち落とした。
 かぁん!かぁん!
 アリサがどれだけ缶を投げても、美華子はその軌道を読み、自分に当たる前に撃ち落としてしまう。
「ひっ、ひぃっ!ほ、本気でケンカしたら、私の方が…」
 背中をブロック塀に押しつけ、アリサが足を震わせる。まだ強がりを言っているが、実際にそう思っていないのは、明らかにわかる。もう投げるものがなくなったらしく、抵抗もやめ、ただ美華子の方を向いていた。ダーツガンをポケットにしまった美華子が、最後の数歩を詰め寄った。
「ご、ごめんなさい…」
 涙を目に浮かべ、アリサが謝罪の言葉を口にした。
「謝るくらいなら最初からやらなければよかったのに」
「う、うう、私、竜馬のこととなったら、見境、なくなっちゃって…い、今は、反省、してるから…」
 心底軽蔑した表情をする美華子。アリサが怯えた姿が、滑稽でもあり、悲しくもある。
「…嘘つき」
 がしっ!
 美華子が両手でアリサを掴んだ。強く、強く。にやーっと、美華子がほくそ笑んだ。
「きゃああああああ、あ!あ…」
 がく、とアリサが首を折る。何かをされる前に、怖さのあまり気絶してしまったらしい。ノリだけでやっていた美華子が、すうっと正気に戻っていく。これだけやれば、きっとアリサも竜馬関係で絡んでくることはなくなるに違いない。それにしても、気絶までするとは、美華子は思っていなかった。本当ならば、錯乱したアリサに実は怒っていなかったことを伝え、たしなめるはずだった。きっと、周りへの釈明が面倒くさいことだろう。
「はあ…」
 気絶したアリサを担いで、路地を出ると、半泣きの真優美が、ぐだぐだの竜馬を連れて歩いているところだった。竜馬の手が、恵理香と修平をぐっと捕まえている。真優美の目が、美華子を捉えたそのとき、怯えたようにびくっと体を震わせた。
『やれやれ…』
 自業自得だろうが、後悔を感じずにはいられない。これから、どれだけかかってもいいから、説明をしなければ。とりあえず、今日は疲れてしまった、帰ったらドミノアートでも作りながら、ブログの更新をしよう。そう思いながら、美華子がみんなのいる方へ足を進める。
 春の足音も聞こえ、少しずつ暖かくなった東京。柔らかな日差しが降り注ぐ。黄色い陽光の下、少年少女は、いつまでも話を続けていた。春はもうすぐそこだ。



 (続く)


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