「だいぶ雨が弱くなったね」
 半乾きの服を着た美華子が、空を見上げた。外は小雨になり、あれほど鳴っていた雷も止んでいる。既に2人は、アパートの近くまで来ていた。暖まり、体力が戻ったところで、2人は小屋を出た。美華子は泣きやんだ後も、黙りこくったままだった。それからしばらくして、何かが吹っ切れたかのように、いきなり快活に話し始めた。そんな美華子に、竜馬も楽しい気分になって、凍り付く雨の中でも、憂鬱になることはなかった。2人はまるで夏の夕立を散歩するかのように、着実に足を進めた。
「うん。帰ったらまずシャワーだな」
「そうだね。替えの服、持ってきてないよ。なんとか調度しないと」
「それなら、姉貴の服貸してもらうといいよ。サイズあわないかも知れないけどさ」
「大丈夫だと思う。いざとなったら、錦原の服借りるよ。男物なら大きいし」
 何でもない会話がこんなに楽しいとは、竜馬は思いもしなかった。元気を取り戻した美華子が、とても上機嫌なのも、嬉しかった。
「さーて。このよくわからんイモと松茸。みんな喜ぶぜ、きっと」
 竜馬がにこにことビニール袋を覗き込んだ。小屋から出て、ここに来るまでにも、竜馬は不運としか言いようがない出来事に見舞われていたが、この明るい気分をうち消すことは出来なかった。
「うん。防水はしっかりしてる?」
 美華子が2つの袋を覗き込む。
「もちろん。イモもキノコも濡れちゃいない…」
「竜馬ー!美華子ー!」
 唐突に響き渡る、聞き慣れた声。顔を上げると、アリサがこちらに駆け寄ってくる途中だった。
「あの写真見て、怒って飛び出したはいいものの、橋とか浸水してたから心配だったんだよ?」
 はあ、はあと息を付くアリサ。その手には、開いた傘と閉じた傘が、1本ずつ握られている。だいぶ走り回ったらしく、アリサの靴には泥がついていた。
「ありがと。心配かけてごめん。アリサは優しいね」
 美華子がにっこりと笑った。いつもと違うその態度に、アリサが狐につままれたような顔をする。
「…どうしたの?なんか美華子、明るいけど」
「別にどうもしないよ。傘、一本くれる?」
「へ?あ、ああ、うん」
 閉じた傘を美華子に渡すアリサ。美華子がそれを開く。
「ありゃ、もう傘ないんだな」
 竜馬が髪にたっぷりと染みた雨を拭う。
「私と相合い傘よ〜。くふふ、入って?」
 アリサが傘を片手で持ち、竜馬の入れるスペースを作る。だが、竜馬はアリサの傘には入らず、美華子の傘に入った。うっすらと嬉しそうな表情を見せた美華子が、竜馬の肩に抱きついてみせる。
「あ…!な、何やってんのよ!」
 ぷんすか怒ったアリサが、美華子に詰め寄る。
「いいじゃん。傘の数足りないし」
「そういう問題じゃない!竜馬が私以外の女の子といちゃつくなんて、考えられないのよ!」
 くすりと笑う美華子と対照的に、アリサが激怒している。先ほどの写真で受けたという怒りが、今頃になって復活しているようだ。
「つまらないこと気にするんだね。まあ、いいよ。行こう」
 とても楽しそうに、美華子が笑う。その笑顔に、竜馬は釘付けになった。心臓が、どきりと音を立てる。
「竜馬まで美華子にでれでれしちゃって!せっかく探しに来たのにー!」
 怒ったアリサが、竜馬に噛みつこうと飛びかかる。と、美華子が竜馬の体をひょいと押したせいで、アリサは何もない空間を抱くことになった。
「はは、随分怒るんだね。じゃあ、こんなの、どう?」
 ぐいっ
 美華子が竜馬の腕を引っ張った。
「わ、と」
 竜馬が美華子の方によろよろと近づく。全身で竜馬を受け止めた美華子は、竜馬の顔を両手で軽く掴み、その唇をロックオンすると、自分の唇をあわせた。
「あー!」
 アリサが大声で叫ぶ。それを無視して、美華子が竜馬に強くキスをする。体が石のように固まった竜馬だったが、だんだんとその状況にも慣れた。噛んでいたガムのものらしい、ミントの匂いが、竜馬の脳を刺激する。
「みっ、みかっ…あんたー!」
「私たちさ、恋人同士だって言われちゃった。ふふ、悪くない気分だよね。ね、似合ってるでしょ?」
 怒髪天を突くアリサを、美華子がどこ吹く風と受け流す。
「がー!美華子、許さない!」
 とうとう、アリサが怒りを爆発させた。逃げる美華子に、追うアリサ。
「ああ、もう…わっ!」
 ごんっ!
 その2人の後を追おうとした竜馬は、滑って転んでブロック塀に頭をぶつけてしまった。けれど、美華子のキスによってもたらされた幸福感を消すことは出来ない。
 竜馬は一つのことに気が付いた。どんなに不幸な日があるとしても、不幸の裏側には幸福が貼り付いている。そしてその幸福は、必ず自分に返ってくる。幸福と不幸は等価だ。今日一日の不幸…パソコンの故障や、怪我などに見合うだけの幸福を、美華子は竜馬にくれたのだった。それだけで十分だった。今までに知ることの出来なかった、壊れやすくもかわいい部分を知ることが出来たのだから。
 雨が少しずつ強まっていく。東京全域に風が吹く。その中で竜馬は、清香の持つ服の中から美華子に似合うものはどれだろうと考えながら、アパートへと足を進めていた。



 (続く)


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