これは、2045年、とある高校に入学した少年と、彼をとりまく少年少女の、少しごたごたした物語。
 日常と騒動。愛と友情。ケンカと仲直り。戦いと勝敗。
 そんな、とりとめのないものを書いた、物語である。


 おーばー・ざ・ぺがさす
 第十七話「雨降り、アンラッキーの場合」



 その日も、いつもと変わらない一日だった。何も変わらない日だった。高校生で、クリーム色の体毛と、長い金髪を持つ獣人娘のアリサは、彼女が一方的に恋人認定している、同じく高校生の人間少年、竜馬を追い回していた。
「逃げないでよー!せっかく松茸焼いたのに、なんでよ!」
 アリサが竜馬の後を追いかける。彼女の手には、フタのされたフライパンがある。普通の人間ならばフライパンを持って追いかけっこなど、重すぎて到底出来ないだろうが、アリサは力持ちだったので大した負担にはならなかった。
 この松茸は、アリサがいろいろと面倒くさい工程を経て調理した、いわば芸術品だ。それなのに、竜馬はそれを拒否して逃げ回っている。それだけで、アリサは腹が立った。
 そもそも、竜馬はアリサに対して当たりがきつすぎる。アリサが努力しようとしまいと、彼女の愛を受け取ることはない。竜馬が大好きなアリサは、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
「嘘つけ!それ、松茸なんかじゃねえじゃねえか!」
 竜馬が立ち止まり、フライパンをびしと指さす。言われたアリサは、違和感を感じながらも、フライパンのフタを開いた。中にあったのは、松茸などではなく、大きなチキンソテーだった。
「あ…あれ?で、でも、チキンソテーも美味しいわよ?ほらほら、かわいい私が、丹誠込めて作った手料理よ?」
 慌ててアリサが取り繕う。芸術松茸の行き先がわからない。が、どちらにせよ、愛する男に手料理を食べさせたいというのが、アリサの気持ちだった。
「いらねえよ…俺は鶏肉が大嫌いなんだ。なのに無理矢理食べさせるのか?ったく、嫌な女だぜ。マジ早くくたばってくれ。全然かわいくねえよ、糞が」
 竜馬が憎々しげに言い放つ。と同時に、アリサは自分の中に怒りがわき上がるのを感じた。いつもの竜馬より、悪口の度合いが上がっている。
「何よ!このバカ竜馬ー!」
 がぶぅ!
「ぎゃあ!」
 フライパンを放り出し、アリサが竜馬の腕に思い切り噛みついた。
 びしぃっ
「ひ!」
 アリサの歯茎に、針でも刺さったかのような、すさまじい痛みが走った。アリサが反射的に竜馬の腕を口から放す。
「い、いたたた、歯が…何、これえ…」
 口を押さえるアリサ。歯を一つ一つ撫でると、どうやら右上の犬歯が痛んでいるようだ。ぐらぐらとして、抜けそうになって、血がにじみ出ている。堅い歯の感触とは対照的に、異様に柔らかい歯茎の手触りが、アリサをぞっとさせた。
「大丈夫か?ま、抜けたら抜けたで、枕の下にでも置いておくんだな。妖精さんが金貨に替えてくれるだろうよ」
 下卑た笑い声で、竜馬が笑う。
「アリサ。全く、バカだね。普段、人に噛みつきまくってるせいだよ」
 後ろから声をかけられ、アリサが振り返ると、そこには1人の人間少女がいた。茶髪ショートで目が金色の人間少女、名を松葉美華子と言う。普段は寡黙で無表情な彼女が、今ばかりはアリサを蔑むようににやりと笑った。
「美華子、あんた!」
「牙を抜かないと危ないからね。錦原は私の方がいいんだってさ」
 勝ち誇ったように竜馬に抱きつく美華子。竜馬も、それに対して嬉しそうに微笑んだ。
「う、うう、ううう…」
 その2人の姿がどうにも腹立たしくて仕方がないアリサは、殴りかかろうとしたが、歯の痛みのせいで力が入らない。悔しくて涙が出る。目の前が霞む…


「う、うう…」
 アリサは泣いていた。が、涙はこぼれていなかった。それもそのはず、彼女の目は閉じていたからだ。窓から朝日がうっすらと射す。彼女の意識が完全に戻ったとき、今までのことは夢であったことをようやく理解した。同時に、嫌われた事実などないのだと、どこかほっとしていた。
「大丈夫、よね…」
 歯を撫でるアリサ。彼女の歯は、とてもきれいで、虫歯など一度もしたことのない歯だ。
「涎垂れちゃった…」
 ベッドの枕元に置いてあったティッシュを取り、口を拭うアリサ。どうやら、夢の中で口を開けてしまったせいらしい。ティッシュをゴミ箱に投げ入れ、ゆっくりとベッドの上に起きあがる。時計をちらと見れば、まだ6時。学校に行く準備の時間を考えても、まだ1時間寝ていられる。
「…なんであんな夢、見ちゃったんだろ。歯が抜ける夢ってなんだっけ」
 アリサが記憶を漁る。前に夢占いのウェブサイトを見ていたとき、何か意味づけされていたことを思い出した。しかし、それがどんな意味だったか、今の彼女にはわからない。
「竜馬…」
 想い人の名を、そっと口にするアリサ。心いっぱいに切なさが溢れる。彼は本当に鶏肉が嫌いだったのだろうか。否、フライドチキンを食べていたこともあるので、それはない。問題は、彼が「死ね」と取れるような言葉を口にしていたことだ。確かに、アリサは彼にそこそこ嫌われているが、死ねとまでは言われていない。それに、友人の美華子も、竜馬に想いを寄せている風な素振りはまったく見せていない。なのに…
「…ま、いいか」
 アリサは深く考えず、布団に潜り込んだ。そして、隣に寝ている少年…竜馬に抱きついた。同じベッドに寝られる幸せは、アリサの記憶から、嫌な夢を忘れさせてくれる。とは言っても、これは竜馬の同意の上での行為ではなかった。
 竜馬は姉である清香と2人で暮らしている。清香も竜馬も、東京の学校に通っているので、地元から遠く離れたところで生活しているのだ。
 月に一度は、アリサはこっそりと竜馬の部屋に忍び込み、彼と一緒に眠る。清香は竜馬とアリサが付き合うことを推奨しているので、部屋に忍び込むときには手助けをしてくれる。竜馬はそれをとても嫌がっていたが、11月も終わりになってくるとだいぶ寒いらしく、ケモノであるアリサと一緒に寝ると暖かいためか、文句の量が減っていた。それに付け入ったアリサは、一緒に寝る日を、週に1、2度に頻度を上げていた。
「竜馬好き好き〜。んー、体くっつけちゃお」
 ぐりぐり
 抱きついたアリサが、体を竜馬に擦り付ける。
「あー、暖かいなあ…冬って寒いもんね。私は冬毛があるけど、竜馬は寒くないのかな」
 この瞬間が、アリサはとても幸せだった。思わず顔がにやつく。
「ん、あ…」
 竜馬が薄目を開ける。だんだんと状況を理解した竜馬は、目の前にいるのがアリサだということを知った。
「う、うわぁ!」
 ばっ!
 竜馬が後ろに転がり逃げる。アリサの腕を離れた彼は、転がりすぎて、ベッドから転げ落ちた。
 がんっ!
「いたー!」
 バカにでかい音を立てて、竜馬が床に頭をぶつけた。
「だ、大丈夫?」
 急いでベッドを降りたアリサが、痛がっている竜馬を抱き起こす。ぷにゅり、とアリサの胸が竜馬の頬にぶつかった。
「えーい!どーりで嫌な夢を見るわけだ!」
 アリサを振り払い、竜馬が起きあがった。頭に、こぶが出来ている。今の激突具合で、気絶しなかったのが不思議なくらいだ。
「嫌な夢って何よー」
 むっとした顔でアリサが聞く。
「お前が俺にシャワーで延々と水をかけ続ける夢だよ。どこまでもどこまでも追ってきて、うっとおしいったらなかった。あー、やな夢見たぜ。ほら、出てけよ」
 竜馬がアリサの首根っこを掴み、自室の襖を開ける。
「嫌よ?私はもう一度竜馬と一緒に寝るのよ?」
 アリサが竜馬の手を外す。
「そんなこと出来るか!か、仮にも男女だぞ?ほら、居間にコタツあるから、そっちで寝ろよ!」
 アリサに向かって怒鳴りつける竜馬。その頬が赤く染まっているのを、アリサは見逃さない。
「くふふ、照・れ・屋・さ・ん。竜馬、愛してるわ」
 ぷに
 アリサの人差し指が、竜馬の頬を押した。
「やめんか!」
 竜馬がアリサを振り払い、前のめりに駆け出す。
「なんで逃げるのよう!」
「逃げるわ、アホンダラ!」
 本棚に背を預け、アリサのことを睨む竜馬。そのとき、地面が揺れた。
 ゴゴゴゴ…
「あら、地震。最近多いなあ」
 それなりに強い地震のようだ。震度3はあるだろうか。本棚の本は落ちてこなかったが、その上に置いてあった、分厚い百科事典が、竜馬の頭めがけてごろりと落ちた。
 ばしぃん!
「ぐっは…!」
 これにはさすがの竜馬もたまらなかった。揺れは収まったはずなのに、竜馬の体だけ揺れている。痙攣のようだ。
「俺、なんでこんななんだ…」
 竜馬がかくりと首を倒す。
「竜馬、また気絶してる。くふふ、弱っちいんだから。今のうちに…」
 竜馬が気絶したことに気が付いたアリサは、にこにこの笑顔で竜馬を担ぎ、ベッドに寝かせる。両手で竜馬を、抱き枕のように抱きしめながら、幸せそうに2度目の眠りについた。


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