その日の夜。竜馬は針と糸を握り、慣れない裁縫と格闘していた。縫っているのはポシェット。アリサが今日、修理しそこなった、犬のアップリケのついたポシェットだ。高校生の少年が真剣に裁縫をしている様は、どこか内職を彷彿とさせる。
『…で、昼頃、何者かが爆発を起こし逃亡する事件が起きました。犯人は数人の男女で、獣人、地球人が入り乱れていたとのことです。現場は大通りにかかる歩道橋で…』
 パソコンが配信されたニュースを拾って流している。その事件は、竜馬達が起こした事件だろうか。それとも、別の事件だろうか。注意して見ればわかるのだろうが、竜馬はそれをしなかった。
「…そうそう、上手いね。雑巾くらいなら縫えそうさ」
 竜馬の手元を見て、百合子がにっこりと笑った。
「ったく。なんで俺が修理せにゃならんのだ」
 だいぶストレスが溜まっているようだ。ぶつぶつと竜馬が文句を言う。アリサの言い分としては、このポシェット修理の話から、竜馬と親密になるまでのスケジュールが台無しにされたから、だそうだ。もっともその話は、百合子の知恵がふんだんに使われた、まるで罠のような話だったが。
 もちろん竜馬はこれを拒否したが、アリサは無理矢理に詰め寄り、修理が終わるまでは帰らないとまで言った。ところが、今日一日の騒動で疲れたのか、寝間着に着替えて竜馬のベッドで勝手に就寝。結局、竜馬は百合子に教わりながら、慣れない縫い物をすることになってしまった。
『アリサは基本的に狡猾なんだよな…真心なんかありゃしねえ…』
 針でポシェットをつつきながら、竜馬がため息をついた。パソコンがニュースを終了する。
「ため息をつくと幸せが逃げるよ。指、刺さないように気を付けてほしいさ。そこはこうして…」
 竜馬の手から、針とポシェットを受け取る百合子。ちくり、ちくりと丁寧に縫っていく。ミシンが空けた穴が既にあるので、それをなぞる形だ。
「上手いもんだな」
 その鮮やかな手並みに、竜馬は感心してしまった。思えば清香も、そして竜馬達の母も、だいぶ手先が器用だ。これはきっと、彼女から受け継がれているものなのだろう。
「いつもしおらしくしてりゃ十分女の子なのにな。なんで、あんな憎まれ口叩くんだ?」
 手持ち無沙汰になった竜馬が、ベッドにもたれかかる。百合子は何も答えない。外では、冷たい秋の雨が降り始めたのか、細かい雨音が聞こえた。
「…あたしね、実は就職とか、どうでもよかったんさ」
 百合子が、ぽつりぽつりと話し始めた。声のトーンが低い。
「なんか、怖かったんさ。社会じゃ通用しないあたし。まだ中学生だけど、一人になっちゃって。竜馬も、清香も、東京行っちゃうし、一人っ子みたいになっちゃって。あと、仲良かった友達が、別の中学行っちゃったんさ」
 ぽったん
 大きな雨粒が、ベランダに落ちる音がした。外に洗濯物を干していなかったか、いくらか不安になった竜馬だったが、ベランダに洗濯物の影が見えなかったので安心した。
「そりゃあ、じいちゃんだってばあちゃんだっておるし、他の友達だっておるよ。でも、そんなんじゃなくて、あたしの自信が置いて行かれた気がしたんさ。自信があっても、何か出来るわけじゃないけど、すっごい不安で。うん、怖かった。置いてかれた気がした」
 そこで、百合子が言葉を切った。どう話していいかわからず、竜馬が黙り込む。重い重い沈黙だ。まるで、世界の言葉が失われたかのような。竜馬は、心が重くなるのを感じた。
「でもさ、こうしてまた竜馬とか清香にあいに来てさ。久々に顔見て、すっごい嬉しかったんさ。特に、竜馬がアリサさんといるとき、すっごく活き活きしているように見えて。なんていうか、それを見て、やる気が出たんさ。それに、かっこいい人もいたし。西田さん、かっこよかったなあ」
 どうやら、百合子は祐太朗に惚れてしまったようだ。思い出しているのか、ぽわぽわとした顔をしている。
「友達っていいよね。大事にしたくなる。あたしら、兄弟っていうよりは、仲良しの友達だったんだよね。うん。いつも、無理にハイテンションにしなくてもよかったんだよね」
 ポシェットを置いた百合子がにっこりと笑う。その目に、涙が浮かんでいた。小さな糸切りばさみを使い、糸を切れば、そこには修理の終わったポシェットが姿を見せた。
「…実は、さ。俺、今まで、お前のことが嫌いだったんだわ。生意気だって思ってた。だから、東京の高校に行きたかったんだよ」
「ほんとに?ひっどいなあ…」
「まあ、な。でも、お前の気持ちがわかってよかったよ。無意味に嫌わなくてもいいのかも知れないな」
 竜馬が頭を垂れた。外の雨は、勢いが強くなったようで、雨音が大きくなっていた。
「ん、う…」
 ベッドの上で寝ていたアリサが、寝返りを打った。その顔は、とても幸せそうだ。いい夢を見ているのだろう。
「竜馬、実はアリサさんのこと、好きでしょ」
 百合子がにやりと笑う。
「ないね、ない」
「またそんなこと言って。素直じゃないんだからさ」
 大仰なリアクションで否定する竜馬に、百合子が苦笑を見せる。
「今回はありがと。また今度、遊びに来ていいかな」
 百合子が針と糸を、ソーイングセットの中に仕舞った。今の竜馬の前にいるのは、小憎たらしくて嫌だった妹ではなく、少し理解し合えた妹だった。優しい気持ちが、竜馬を包んでいた。それは、まるで春の日差しのような。今ならば、誰と一緒にいても、あるいは一人でも、とても優しい自分でいられる。
「…うん。また来いよ」
 竜馬が微笑みかけたのを見ながら、百合子が部屋を出た。彼女は清香の部屋へ行き、一緒に寝るという話だ。残された竜馬は、部屋にあるミニテーブルを退けて、そこに布団を敷き始めた。
「アリサがベッド占拠しちまうんだもんなあ。客用布団があって本当によかった」
 アリサが寝ていることを確認してから、竜馬は服を脱ぎ、パジャマに着替えた。枕を布団に投げるように置き、ベッドを背に布団に腰掛ける。
「ん…まだ、起きてたの?」
 ベッドで寝ていたアリサが、薄目を明けて竜馬を見つめる。
「悪い、起こしたか」
「ううん。竜馬のせいじゃないよ。隣、いい?」
「ん…」
 アリサがするりとベッドから降り、竜馬の隣に座った。
「うう、寒…もうすっかり秋だね」
 アリサが膝を立て、三角座りをした。ふわりと、ヘアコンディショナーの匂いが漂う。
「あのね、夢を見てたんだ」
 きゅっと、アリサが竜馬に体をくっつける。
「どんな夢?」
「忘れちゃった。でも、竜馬がいたよ。すごく、優しくて。嬉しかったのだけ、覚えてる」
 アリサの顔に、幸せの色が浮かぶ。彼女は、寝ても醒めても、幸せなのだろう。好きな人のそばにいられるのだから。
「そっか。よかったな」
「うん」
 押し黙った竜馬は、しばらく雨の音を、聞くでもなく聞いていた。肌寒い空気が、部屋の中に満ちている。
「寒いね。竜馬、ぎゅっとしていい?」
 アリサが頬を擦り寄せ、謙虚な口調で問う。その仕草に、竜馬はどきりとした。いつもは押しの強いアリサが、今日に限ってはなぜか柔らかかった。
「ん…ちょっとならいいけど…」
「くふふ、嬉しい」
 ぎゅっ…
 竜馬の後ろに滑り込んだアリサが、前に向かって両手を回す。ちょうど、竜馬の胸の前で腕をクロスさせ、その顔を背中に押しつけた。
「暖かいよ、竜馬」
 まるでアリサではない、誰か別の少女のようだ。竜馬の心臓が高鳴る。
「なあ、アリサ。お前、誕生日いつだっけ?」
 にわかに、竜馬が聞く。
「突然どうしたの?」
「ん…あのポシェット、もうぼろぼろだろ?思い出も大事だけど、あんまりだと思ったから、新しいのを贈ろうと思ってさ。いや、やっぱカバンって必要かなって」
 言いながら、ちらりと竜馬が後ろを見る。驚いた顔をしていたアリサの顔が、ゆっくりと歪み、涙をこぼし始めた。
「お、おい。どうした?どっか、痛いのか?」
 竜馬が狼狽して、アリサの方へ向き直ろうと体をひねった。アリサは竜馬を強く抱き、それをさせない。涙が、竜馬のパジャマの首元を濡らす。
「ごめん、なんか、泣いちゃう。止まらないの。嬉しいよ、竜馬。好きだよ、好き、すごく。誰より、世界で、宇宙で一番、竜馬が好きだよ」
 涙声のアリサが、一語一語、絞り出すように言った。その言葉には、愛だけではなく、暖かな何かが詰まっていた。竜馬もつられて泣きそうになったが、ぐっと我慢する。もしかすると、百合子は竜馬の心の鍵を持っていたのかも知れない。それによって開けられた心は、アリサに流れ、染み込んだのかも知れない。
 雨が降っている。しとしとと、秋の夜長に、冷たい雨が降っている。竜馬は背中に、アリサのぬくもりを感じながら、彼女の泣き声を、ただずっと聞いていた。



 (続く)


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