夜の公園に、2人の女性が立っていた。片方は清香、片方はコイレ。運動場になっている、広いスペースに、2人が向き合うように立っている。置いてあるベンチには、事の成り行きを見届けるために来た修平と、自分を負かした女の戦いを見るために来た美華子が座っていた。
 この公園は、春に竜馬達がひったくりを捕まえた公園だ。運動場には明かりがあったが、街灯程度の大きさでそれほど強力なものではない。
 修平から事情を聞いた清香は、その日のうちにコイレに連絡を取った。連絡を受けたコイレは、当日中にしてしまおうと、この場所と12時という時間を指定した。公園に面した通りは大きく、まだ人や車の通りはあるが、公園内には人の姿がない彼らだけだ。
「見てろって言っても…どうしよう…俺、どうすりゃいいんだ…」
 修平がはらはらしながら2人を見る。
「試合でしょ。ひどいことになる前に、2人ともやめるでしょ」
 対して、美華子はあまり深く考えていない様子だ。
「でもさ、これで何かあったら…」
「くどい。なんで清香さんが戦う気になったか、わかんないの?」
 ぶちぶちと言い続ける修平に、美華子が喝を入れる。
「どういうことさ?」
「さあね。自分で考えな。あんた、錦原と同じくらい、気が付かない男だと想うよ」
 腕を頭の後ろに組み、ベンチに背を預ける美華子。修平は清香の方を見た。江戸好きな彼女の顔は、真剣な武士の顔と言うよりは、笑っている浮世絵師の顔と形容できた。
「あなたなんですね。修平君が、気になってるって言ってた人。あえて嬉しいです」
「よろしく。そうね、修平言ってたね。自分のどこがいいかなんか、わかんないけど」
 1言ずつ、お互いが挨拶をする。清香は丸腰、使い慣れた刀剣類を持っていない。コイレも、それにあわせて、ウッドナイフの入ったケースを置いた。
「使わないの?」
「ええ。飛び道具相手に戦うときの戦法ですから」
「そっか」
 一瞬、その場に電気が走った。コイレが地面を蹴り、清香の方へ間合いを詰める。コイレの拳が、清香の鼻2センチほどのところで停止した。
「いい試合、しましょうね」
「そうだね」
 ぐいっ
 清香がコイレの手を握り、下に引っ張る。膝がコイレの胸めがけて飛んだが、コイレは体を横にくるりと回してそれを回避した。倒れ込みそうなまま、腕を振り払ったコイレは、遠心力のままに足払いをかけた。がしっと音がして、清香の内スネに足払いが入る。
「んっ!」
 清香が両足で足払いを挟み、横にねじ倒した。バランスを失ったコイレが地面に倒れ込む。間髪を入れず、清香が覆い被さるように拳を撃ち込むが、コイレは転がってそれを避けた。立ち上がると同時に、軽く埃を払う。
「やるね」
「どうも。とても楽しいですよ」
 2人が、ゆっくりと間合いを計る。清香の目は、うっすらと笑っていた。何か、自信のようなものを強く感じる。コイレに自信がないわけではないのだろうが、あくまでマイペースの清香に、少しペースを乱されているようではあった。
「ふっ!」
 コイレが回し蹴りを放った。美華子を沈めた、足、尻尾、足と繋がる蹴りだ。清香は足を避け、尻尾を逆に蹴り飛ばした。
「あうっ!」
 コイレの回転が止まる。片手で尻尾を押さえ、清香と目をあわせる。
「まだまだ!」
 コイレが地面を蹴り、高く跳躍した。真っ直ぐに蹴りが伸び、清香に突っ込む。跳び蹴りを避けた清香は、そのボディにパンチを繰り出そうと、近くに寄った。それを待っていたコイレは、瞬発的に体を崩し、地面に手を置いたまま、まるで風車のようにくるりと回って足を払った。
「あたっ」
 清香が体勢を崩す。隙を逃さず、コイレは拳を作り、清香の腹を殴った。くるりと周り、後ろに回り込み、首を絞める。
 ぐ、ぐ、ぐ
「あう、う…」
 コイレの腕に力が入る。清香は苦しそうに、コイレの手を掴んだ。
「降参しますか?」
「う、ううん、まだいいよ…!」
 ぐん!
「あ」
 清香の手が、コイレの首締めをする腕を外した。腕力に任せて、知恵の輪をねじ曲げるような外し方だ。ふう、ふう、と息をつき、立ち直す。
「こうしたケンカは久しぶりだなー。あたし、負け際はしっかりわかってるから、別に背負ってるものは重くないよ。緩衝グローブもあるし、パンチは痛くない。遠慮なく来てちょうだい」
 清香が手を見せた。手には、柔らかい布が巻き付けられていた。
「そうですか。あたしも重くないつもりだけど、実は結構重いんですよね」
 ばしっ!
 コイレの拳が飛び、清香が手のひらで受け止めた。
「戦うのは楽しいです。そして、あたし、負けたくないんです」
 ばしっ!ばしっ!ばしっ!ばしっ!
 何度も何度も、パンチが撃ち込まれるが、それは清香に全て止められていた。遅くもない。軽くもない。その上、お互いに力を出しているはずなのに、それをおくびにすら出さない。
「まっすぐだねえ。攻めが単調って言うか。そういうのってさ、こういうのに弱いんだよね」
 ぐいっ!
「あう!」
 受け止めた拳の、人差し指を掴んだ清香が、それを手の甲へ折り曲げた。痛みにコイレの顔が歪む。機を逃さず、腕を掴み、警察官が犯人を捕縛するときのように腕を後ろに回した。
「まだですよっ」
 コイレが腕を振り払い、前につんのめるように歩を出した。と、清香は後頭部に手刀を打ち込んだ。
「あっ!」
 一瞬、コイレの三半規管が揺れる。その後ろに張り付き、膝を後ろからぐいと押したのは、清香の膝だ。いわゆる、膝カックンと言われる行為だが、バランスを崩したコイレには辛く、片膝をついてしまった。そのまま、もう片方の膝も倒した清香は、腕を動かないように押さえながら、頭を股の間に挟んだ。
「ほら、これだけでもう立てない。蹴り飛ばして倒して、マウントすることもできるけど…おっ」
 頭を挟まれたまま、コイレが地を蹴った。肩車の要領で清香が持ち上がる。彼女の体重はあまり重い方ではない。コイレは完全に立ち上がった。そして、その反動で、清香が振り子のように揺れた。
「負けないんだから!」
 がっ!
 足を離して逃げようとした清香に、コイレが足を掴みなおす。足の筋肉のみで、落下を止める清香。このままいけば、振り回されるなり叩きつけられられるなりして、試合が決まってしまうだろう。
「あ、清香さん!」
 ベンチで見ていた修平が叫んだ。しかし、彼の心配は、あまり意味のないものだった。腕を伸ばした清香は、それで地面を叩き、体をぐっと丸めた。
「よっと!」
 ぐぅん!
 清香の体が、伸びたように感じられた。まるでバック転のような動き。足で挟んだままのコイレが、強く引っ張られる。
「え?あ、き、きゃあああ!」
 清香の足が、コイレを投げ飛ばした。清香自体は、途中でコイレを離し、足の裏と膝で地面を踏んだ。彼女の長いポニーテールが揺れる。一方、投げ飛ばされたコイレは、背中から地面に叩きつけられ、動かなくなった。尻尾がだらりと伸びている。
「おしまい、と。こんな技、初めて出したよ。あー、疲れた」
 清香がぐぅんと体を伸ばした。コイレは倒れたまま、空を見つめている。星が美しい。雲一つない夜空に、丸い月が上がっている。
「立てる?」
 コイレに手を差し伸べる清香。コイレはそれを見ないで、月をじっと見ていた。しばらく手を出していた清香も、そのうち手を引っ込め、一緒に月を見始めた。修平が心配そうに、美華子が無表情で、2人に駆け寄る。
「大丈夫っすか?お互い、怪我とかないっすか?」
 相変わらず、修平はあたふたしている。その声にも、コイレは答えなかった。
「あたし、子供達に護身術を教えてるんだ」
 しばらくして、コイレがぽつりと言った。自分にいわれてることに気が付いた修平は、コイレの顔を、何とも言えない表情で見下ろした。
「強いお姉ちゃん、って。みんな、かわいい。そのうち、みんな言うんだ。お姉ちゃんは最強だって。それを証明してあげたかった。私はみんなの言うとおり強いって」
「なんで…」
「安心させたかったんだ。最近、子供が犯罪に巻き込まれるケースが多いじゃない。強いお姉ちゃんに習ったから、大丈夫だって、いざというとき安心して欲しかった」
 コイレが体を起こした。背中についた泥を、美華子が丁寧に払う。
「ありがとう」
 コイレが丁寧に頭を下げた。
「子供は、間違えるよ。ケンカにその力を使っちゃうかも知れない。そのとき、あなたがケンカ中毒じゃ、みんながそれに習っちゃうよ。もう、お終いにしよう」
 ぽん
 清香がコイレの頭に手を置いた。清香の方が背が低いのに、いかにも年上と言う風に見えた。
「そう…ですね。ごめんなさい。あたし、間違えてたみたいです。これじゃあ、修平君を好きにもなれないですね」
「好きになってもいいんじゃない?」
「いえ、あたしの心の問題です。握った拳で殴っても、愛は出てこないから」
 コイレが軽く清香をハグした。
「好きなふりしてただけかも知れませんね。戦いが好きとか。そう思いこんでただけかも知れません。迷惑かけて、ごめんなさい」
 3歩下がって、頭を下げたコイレの顔は、今までの顔とは違っていた。
「ありがとう。踏ん切りがつきました。修平君、今までお弁当を美味しく食べてくれてありがとう。言えば、いつでも作るから。今度は、修平君の作るお弁当を食べさせてね」
 去り際、コイレが、修平の頬に口づけをした。突然のことに、驚いた修平が、石のように堅くなる。
「今まで、戦いの相手してくれて、ありがとう。楽しかったし、嬉しかった。好きだよ。すっごく、好き。これは嘘じゃなくて、本当の気持ちだから」
 コイレはにっこりと笑った。そして、くるりと背を向け、歩き出した。途中、置いてあったウッドナイフを懐にしまう。しょぼくれている様子もない。悲しんでいる様子もない。そこには、敗北を知り、本当の意味で「強いお姉ちゃん」に生まれ変わった少女の姿があった。
「行っちゃったね」
 美華子がぽつりとつぶやいた。
「うん。行っちゃった…」
 修平が、まるで独り言のような口調で言った。彼女の恋は終わったのだろうか。それとも…
「なんか…ごめんなさい」
 修平の口から、謝罪が出た。清香はしばらくぽかんとしていたが、快活に笑い始めた。
「なんで謝るのさ。いいよ」
 清香が笑った。その笑顔が、修平の心に突き刺さる。自分は、蹴りのつけられない問題を、好きな女性に押しつけてしまったのではないか。そんな、説明の付かない自己嫌悪に流されていたとき、修平は手を引っ張られたのを感じた。
「なーにしけた面してんのさ。どっちかがひどい目に遭ったわけでもないんだから。ほら、帰ろう」
 そこに、何もやましいものはなかった。彼女からは怒りを感じなかった。清香にとっては、当たり前なのだ。全て、当たり前の流れに沿ったものだっただけだ。
「お腹空いたねー。ファミレスで、夜食とでもしゃれこもう」
「いいですね」
 伸びをする清香の後ろに、美華子が続く。修平は悟った。自分は、清香のことがとても好きなのだと。それは、打算や計算でもなく、もしくは好きなふりでもなく、純粋な「好き」なのだと。修平は思った。自分はそれを出来るだけの男になろう。そして、いつの日か、清香に告白をしようと。
 強い風が公園を吹き抜ける。11月初めの風は冷たい。しかし、修平の心の中は、いつまでもいつまでも暖かかった。



 (続く)


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