ぱちぱちっ…
 聞き慣れた音がする。薪を暖炉にくべたときの音だ。なんだか体が暖かい。ケネスは、目を開けた。見慣れないベッドに、ケネスは一人きりで寝かせられていた。香水のような香りのする枕に、ふわふわで柔らかい毛布だ。
「ん…?」
 起きあがり、ケネスは辺りを見回した。出入り口のドアは1つで、机が置いてある。机の上には、様々な本が乗っかっている。他に目を引くのは、クローゼットと本棚だ。本棚には大量の方が所狭しと入っている。対照的に、クローゼットにはあまり服が入っていない。簡素な部屋で、どこにも余分ながらくたなどない。1つだけある窓の外では、夜の森が吹雪に包まれている。
 確か自分は、怪物に追われ、雪の中を歩いていたはずだ。最後にはばったり倒れ、意識を失った。なのに今の彼は、暖かい部屋のベッドで寝かされていた。これはなぜか…。
「ルルル…」
 隣の部屋から、ラジオとおぼしき歌声と、それに合わせた鼻歌が聞こえる。かちゃ、という陶器がぶつかる音もする。きっと誰かが助けてくれたに違いない。
 かちゃ…
 戸を少しだけ開けて、ケネスが向こう側を覗き込んだ。そして、声を失った。
 向こう側は、ソファーの置かれたリビングだった。暖炉には火が燃え、チェストの上にあるラジオが、歌謡番組を流している。ソファーには、よくわからないものが座っていた。
 体だけ見れば、スレンダーな女性。年の頃20代と言ったところだ。オレンジ色のセーターを着て、細い足にぴったりのジーンズを履いている。その女性の頭や手を見ると、まるで動物のような毛が生えていた。特に頭は犬のようで、白い顔毛に白い頭髪が生えている。二足歩行する犬のようなその女性は、おおよそ現実世界に存在することのないような生き物で、ケネスの定義で言うならば「怪物」だった。
「ひ…」
 叫びそうになったケネスは必死に口を押さえた。そして、そっとドアを閉めた。ここは怪物の家なのだろうか。それとも、家人が怪物に食われてしまったのだろうか。どちらにせよ、このドアの向こう側には怪物がいた。どうにかしなければ。まずは、窓を開けて、そこから外へ…。
 がたん
「!!」
 足下に転がっていた何かを、ケネスは蹴り飛ばした。それは、ケネスが背負ってきたリュックサックだった。ドアの向こう側の鼻歌が止み、足音がこちらへ近づいてくる。ケネスはとっさにベッドに入り込み、寝たふりをした。ここに自分を寝かせていたということは、まだ殺す気はないということだ。
 かちゃ
 ドアが開く。ケネスは薄目を開け、入ってきた怪物を見た。女性は、転がっているリュックを壁に立てかけなおし、寝たふりをしているケネスの近くへやって来た。心臓が早鐘を打ち、息が苦しくなる。何をされるかわからなくて恐ろしい。
 ふぁさ
 が、予想に反して、女性はケネスの被っている布団を直しただけだった。爪を立てることも牙を立てることもしない。ケネスの胸の辺りをぽんぽんと叩き、女性が部屋から出ていく。女性が部屋を出て行った後、ケネスはもう一度起きあがった。
 何の気無しに、ケネスは置いてある本を手に取った。表紙には、基礎物理学と書かれている。他にも置かれているのは、数学や電気学などの本ばかりだ。中には、読めない言語で書かれた本もある。そんな本の中に、ケネスは1冊の童話を見つけた。内容は、特に目立ったところもない、冒険活劇の本だった。主人公の少年が、未開の地アフリカへ出向き、色々な体験をするといった内容だろうか。ページはかなり多く、本自体は分厚い。
「起きた?」
 ハスキーな女性声がして、ケネスはびくりとした。本を閉じて振り返ると、怪物の女性が立っていた。背筋が凍り付く。
「体調はどう?悪くない?」
 ぺたり
 女性の手がケネスの額に置かれた。その手には、本物の犬のような肉球がついていた。
「あ、あの、あの…」
 ふるふると震え、ケネスが言った。上手くろれつが回らない。
「わかってるわ。大変だったわね。さあ、こちらへ来て。今暖かい飲み物を出すわ」
 きゅ
 ケネスの手を握り、女性がケネスをリビングに連れてきた。そしてソファーに座らせ、台所へと行った。
「ココアとコーヒー、どちらがいいかしら?コーヒーは苦いからココアかしらね?」
 女性がケネスに聞くが、ケネスは恐怖と緊張で返事が出来なかった。女性の機嫌を損ねたら、頭からばりばりと食われてしまうかも知れない。女性は、ケネスが怯えていることに気が付き、にこりと笑った。
「そんなに怖がらないで?危害を加える気なんてないわ」
 そんなことを突然言われても、ケネスは信じることは出来なかった。彼女は人のようにも見えるが、犬のようにも見える。
「信じてないかしら?」
 ケネスの心を見透かしたかのように、女性が微笑む。ケネスは何も言えなかった。
「自己紹介がまだだったわね。私はフィオナ。あなたは?」
 女性はフィオナと名乗った。
「…ケネス」
 ケネスは、自分も名乗るべきだと思い、返事をした。
「ケネス。いい名ね。ようやく返事をしてくれたわね」
 フィオナはにこにこと笑い、ケネスの頭を撫でた。
「森の方に出てみたら、足跡があったから、追いかけてみたらあなたが倒れていたの。あなたは向こう側の人なのね。ここはね、あなた達のいる世界とは、少しだけズレたところにある世界。普段は、あなた達の世界と交わることはないんだけれど、年に数回だけ、世界中のいろいろなところと繋がるの」
 こと
 フィオナがカップをケネスの前に置いた。湯気の立つココアがなみなみと入っている。甘い良い香りが漂った。
「今回は、繋がる場所が、あなたの村の近くだったみたいね。あなたの村の近くには、穴の開きやすい場所があるから、よく繋がるのよ」
 フィオナがふふっと笑った。少しズレたところにある異世界に、ケネスは迷い込んでしまったのだ。12月24日に出歩いてはいけないというのは、その時間に異世界への穴が開きやすいからなのだろう。帰れるかどうかが不安になったケネスは、ぶるっと身震いした。
「寒いかしら?もう少し火を強くするわね」
 薪を手に取り、フィオナが暖炉の中にくべる。火はすぐに薪を飲み込み、一回り大きくなった。ケネスがココアを一口飲む。
「美味しい…」
 思わず言葉が口から漏れる。
「よかった。お客様が来たとき用の、高級なココアなのよ」
「お客様?」
「そう。ここ2ヶ月、私を訪ねてくる人はいなかったから、出さなかったけれどね。ふふ、久しぶりのお客様、嬉しいわ」
 機嫌の良いフィオナは、尻尾を振りながらケネスの隣に座った。だんだんとケネスもフィオナに慣れてきた。言葉も通じるし、彼女の態度はとても穏やかだ。それだけで判断するのは早いかも知れないが、彼女が信用できるような気がしてきた。
「軽くお腹が空いたね。何か食べようかしら。君も何か食べる?」
 フィオナが立ち上がり、キッチンの戸棚に向かう。ケネスは、リュックの中にあるパンのことを思い出し、さっきまで寝かされていた部屋に戻った。
「どうかしたかしら?」
「これ…」
 ケネスはパンを取りだし、1つ差し出す。
「いいの?」
「うん。偶然持ってたから…」
「ふふ、ありがとう」
 パンを受け取るフィオナ。2人はソファーに座り、並んでパンを囓り始めた。
「あら、美味しい。どこかで買ったの?」
「ううん、ママが焼いたんだ」
 フィオナの問いに、ケネスが首を振った。このロールパンは母親が今朝焼いたものだ。村にはパン屋はないので、村の人々はみんなパンの焼き方を知っている。家によってパンの焼き方も違い、個性が出る。母親のロールパンが一番美味いと、ケネスは思っていた。
「どうしてお姉さんはここで暮らしているの?」
 パンを囓りながら、何の気なしにケネスが聞く。一瞬、フィオナの顔が曇ったのを、ケネスは見逃さなかった。何か悪いことを聞いたのだろうか。
「…昔話をしてあげる」
 フィオナが目を擦り、ふんと鼻を鳴らした。
「これは、今からずっと昔のお話です…」


 昔々。人々が電気を使い出すよりずっと昔の話。ある森の中に、1人の魔女が住んでいました。
 魔女はとても醜い姿をしていました。そして、それに輪をかけて醜い心をしていました。魔女は自分のことが嫌いでしたし、他のみんなの事も嫌いでした。
 魔女は、人嫌いという域を超え、人を憎悪しておりました。彼女は幼き頃より、他人に裏切られたり攻撃されたりと、嫌な目にばかりあっていたのです。森に住んでいるのも、人と関わり合いにならないためでした。
 特に魔女が嫌っていたのは、美しい物と親切な行為です。どちらも、偽善に通じる、裏切り者の持ち物だと思っていました。自分も他人も信じられない彼女は、毎日呪いの言葉を吐きながら暮らしていたのです。
 魔女は、人を呪うあまりに、1匹の怪物を創り出しました。その怪物は、鋭い爪と鋭い牙を持つ、真っ白な色をした怪物でした。
 魔女はその怪物を野に放ちました。怪物は多くの村や町を襲い、多くの人々を殺しました。その怪物は、魔女に命令されたからと言うそれだけの理由で、人を襲いました。
 月日が経ち、魔女が死んでしまった後も、怪物は人を殺し続けました。それが怪物の生きる意味だったからです。特に、疑問も持っていませんでした。
 ある冬のこと。怪物が森の中を歩いておりますと、1軒の家がありました。誰が建てたかもわからない、小屋と言ってもいいような家からは、薪の燃える臭いが漂います。
 怪物は、特に何も考えず、小屋の中に入りました。中にいた人を殺すためです。怪物が中で見たのは、1人の恰幅の良い老人でした。怪物は彼を殺そうとしましたが、不思議な力が働き、彼を殺すことは出来ませんでした。
 牙を突き立てようとすると、怪物は口を開けられなくなりました。爪で切り裂こうとした途端、爪がぽろりと取れて床に落ちました。それならばと体をぶつけようとすると、いきなり体が鉄にでもなったかのように重くなり、床にどうと倒れてしまいました。
「ようこそ、我が家へ」
 老人はにっこり笑っていいました。その顔には、白い髭が生えています。怪物は長い間生きていたため、人の言葉を理解することが出来ました。老人がなぜ歓迎の言葉を言ったのか、理解出来ません。自分はこの老人を殺すつもりで来たのに。
「外は寒かっただろう。さあ、スープをおあがりなさい」
 不思議なことに、怪物の体はいきなり軽くなりました。怪物が起きあがると、目の前にはテーブルがありました。テーブルの上には、皿に入れられたスープが。怪物は初めての体験にとまどってしまいました。
「遠慮することなどないよ。さあ」
 スプーンが置かれます。そのスプーンを置いた老人の手を、怪物は叩きつぶそうとしましたが、なぜか体が言うことを聞きません。恐る恐る、怪物はスプーンを手に持ちました。初めてスプーンを使うというのに、使い慣れているかのように手が動きます。
 美味しい。それがスープの感想でした。生肉か生野菜、もしくは襲った人々の家にあった冷たい食べ物しか知らなかった怪物は、出来立てのスープの味を初めて知ったのです。
「聞かせてくれないかね。君がなぜここに来たかを」
 老人の声は、とても耳に心地よかったのです。そして、怪物はいつの間にか、人の言葉を話せるようになっていたのです。怪物は、老人に全てを話しました。老人は怪物の話を黙って聞いていましたが、ぽんと手を叩きました。
「君は足りないんだ。色々なものがね。私がプレゼントしてあげよう。そして、いらないものは取っ払ってしまおう。それが私の特技だからね」
 老人がそういって怪物の頭を撫でると、怪物は不思議な気持ちになりました。心の中に、よくわからない感情が生まれ始めたのです。人を殺すことについて、なんとも感じなかった怪物の中に、様々なものが生まれました。
 気が付くと、怪物は怪物ではなくなっていました。その格好は美しい女性のよう。心はまるで、今生まれたばかりかのように澄み切っています。こうして怪物は、魔女の残した憎しみの代わりに、自分を手に入れたのでした。


「めでたし、めでたしと」
 フィオナは一息に話し終えて、ほうと息を付いた。
「それは…」
「昔話よ。その怪物の罪はね、今も消えてないの。それを償うために生きているのよ」
 ケネスの頭をぽんぽんと撫で、フィオナが笑う。彼女が今、こういう話をした意味を、ケネスはよく理解した。
「その、おじいさんっていうのは…今は死んじゃったの?」
 遠慮気味にケネスは聞いた。フィオナはきょとんとした顔をした後、くすくすと笑い始めた。
「大丈夫。彼はまだ生きてるし、この先も長い間いなくなるなんてことはないわ。今は出かけてるだけよ」
「で、でも、森がどこかに繋がってるんでしょう?迷ったり、危なくないの?」
「彼に限っては大丈夫よ。そんなことないわ。心配してくれてありがとう」
 ぽふ
 フィオナがケネスの頭に手を置き、軽く撫でた。
「明日には雪も止むわ。そうしたら、家の前の雪かきをしないと」
 うーん、と大きく伸びをするフィオナ。明日、という語句に、ケネスが顔を曇らせた。朝までに、自分がベッドに入っていなければ、両親はきっと心配をすることだろう。そんなことになったら大変だ。
「僕、家に帰れるの?」
 ケネスが呟くように聞いた。泣きそうなほど不安なのを、必死にこらえる。
「急にどうしたの?」
「だって、ここは僕の世界とは違うんでしょう?もし帰れなかったら…」
 ケネスがぐすぐすと鼻を啜った。フィオナは頭の上にクエスチョンマークを浮かべていたが、ケネスの言うことを理解し、すぐに微笑んだ。
「もちろん。ちゃんと帰れるわ」
「ほんと?」
「ええ。だから、安心していいのよ」
 がた
 立ち上がったフィオナが、大きく伸びをする。
「明日には送り届けてあげるわ。だから、今日は泊まっていきなさい。どちらにせよ、この吹雪じゃ、帰ろうにも帰れないわ」
 さっきケネスが寝かされていた部屋のドアを開け、フィオナが言った。帰れないのならば仕方がない。今日は泊まっていくより他ないようだ。本当ならば寝ている時間なのだ、眠くて仕方がない。
「じゃあ、僕泊まっていくよ…」
 ベッドへとふらふらと歩くケネス。ぽふり、と音を立ててベッドに沈み込み、上から毛布を被る。
「おやすみなさい」
 そんなケネスの額を軽く撫で、フィオナは外へ出ていった。ケネスが飲み終わったココアのカップをシンクに起き、フィオナがほうと息をつく。
「戻ったよ」
 老年男性の声が聞こえる。少し高めの、どことなくひょうきんな声だ。フィオナが振り向くと、そこにはいつの間にか、赤い服を着て太った老人が立っていた。
「おかえりなさい。早かったんですね」
「ああ。トナカイががんばってくれたからあっという間だったさ」
 老人が快活に笑う。
「なんせ、ヨーロッパだけでもサンタはいっぱいいるでな。ワシに回ってくる仕事も少なかったというわけだ」
 どっかりとソファーに座る老人。この老人が、子供達にギフトを送る冬の主、サンタクロースであることを、フィオナは知っている。言葉も、住むところも、彼に贈られたのだ。
「時に、フィオナ。隣の部屋にいる子はどうしたんだね」
「お気づきだったんですか?」
「ワシはサンタだよ。世界で一番子供に詳しいし、知らないことなどないのさ」
 驚いた顔のフィオナに、サンタはいたずらっぽくウィンクをしてみせた。
「この森に迷い込んで来た子です。雪の中で倒れていたので、連れてきたんです」
 かちゃ
 サンタの前に、フィオナが暖かい紅茶の入ったカップを置いた。
「えーと、どの子かな。顔を見れば思い出すんだが…」
「ケネスです。近くの村に住んでいる…」
「ああ、あの子かね!」
 ぱんと手を鳴らし、サンタが微笑んだ。
「よーく知っておるよ。確か、子犬が欲しいと言っていた。ベッドにいなかったから、どうしたのかと思ったが、まさかうちに来ているとは。いやはや」
 笑い続けるサンタに、フィオナも連られて笑う。と、唐突にサンタは笑うのをやめた。その静寂の寂しさは、まるで大事な物をぽろりと落としたかのようだった。
「…どうだね、フィオナ。お前さんがうちに来てもうずいぶん経つ。そろそろ、もう1度、生まれ変わってはみんかね」
 サンタは冗談を言う様子でもない。本気なのだ。
「でも、私は…」
 フィオナが拳を握りしめる。今でも思い出す人殺しの過去。100年や200年経ったからといって、消すことの出来ない記憶。そんな自分が…。
「いいんだよ。もうお前の罪は消えた。ここらで一つ、少年の一生を明るいものにしてきなさい。そして、数十年後、肉体から解き放たれたらまたここにおいで。ワシはずっと待っておるよ」
 そのサンタの優しい言葉に、フィオナは泣きそうになった。自分は許されたばかりか、新たな生をもらうことが出来たのだ。そう。自分の罪は終わっていたのだ。
「ありがとう、ございます…」
 すうっと、フィオナの体が溶けるように消えていく。足が消え、腹が消え、最後には微笑んでいた顔すらも消えた。
「魔女の呪いが解けた、か」
 サンタはコップを持ち上げ、最後に笑ってこう言った。
「メリー・クリスマス」


 次の日の朝。目が覚めると、ケネスは家のベッドの上に寝ていた。親から贈られたプレゼントの他に、不思議な箱があることに気が付いた彼は、その箱を開けた。
 中から出てきたのは、真っ白で柔らかな子犬だった。昨日の不思議な体験を覚えていた彼は、子犬に純白の者を意味する「フィオナ」と名付けた。
 少年ケネスと子犬フィオナ。この2人の出会いと人生は、ここから始まる。


 (終わり)


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