理想論だけで物を語るな!と説教されるのが苦手です。なぜなら、私自身が理想論で物事を考える傾向の人間だからです。まず自分の現実を見て、次に理想を見て、理想をなんとか物に出来ないかと考えるような人間です。それも、出来るだけ少ない労力で多くの結果を得ようと考えます。さすがに、朝起きたら古新聞が札束になっているようなことが、現実に起きるとは思っておりませんが、似たような願望は常に常に持っております。
 例えば、なにがしかの目的があるときには、人間のみならず生物は皆その目的に向かって進んでいこうと考えるはずです。目的には理由があり、逆に言えば理由のない目的など存在しません。例えば、「餌をとる」という目的が存在するとすれば、理由は「現在空腹であるから」「後のために取っておきたいから」などと多彩に存在することでしょう。中には、「好きな雌にプレゼントしたいから」「餌を取るという行為自体を楽しみたいから」という個体もいるかも知れません。ともあれ、理由から目的は生成され、その生物を突き動かすわけです。
 人間の場合だと、あまりにも理想的で夢想的な目的などは、それを達成しようとしても大変な困難が伴います。一生遊んで暮らせるほどの大金持ちになると言う目的があるとしたら、それを実現するためにお金を稼ぐ手段が必要ですし、そういったものには大変な時間と労力も必要になります。難しい目的を達成しようとすればするほど、その手段や労力が途方もなくなるのです。
 また、目的自体が曖昧であるとすると、それの内部にある要望を細かく達成するのにまた労力が必要になります。例として、お花屋さんになりたい、というおおざっぱな目的の中には、「個人経営店を出すのかアルバイトでいいのか」「花屋で飯を食っていけるほどの収入が必要なのかそうでないのか」などというものから、「どんな種類の花を扱いたいのか」「店を出すとしたらどんな場所にどういう店を出したいのか」「毎日の勤労時間はどのくらいにしたいのか」などという細かい要望まで考えなければなりません。また、これには現実には実現が難しい要素などもあります。「あまり働きたくない」と「お金がたくさん欲しい」などは、同居出来ません。
 実際に、理想論で話を考えてそれに向けて行動していれば、それはそれで楽しいのですが、自分の身のためになりません。なぜなら、既に不可能になっている選択肢を選ぼうと、無駄な努力をしている場合があるからです。無理を通せばなんとやら、などという言葉もありますが、私は自分の身に限ってそんな奇跡は起きないであろうと考えております。なので、もし理想論ではない現実的な目的を持つとしたら、様々な細かい要望を整え、実現可能な道を探していくことが第一歩なのではないかと思い、今日まで人生を生きております。
 …と偉そうなことを言えば言ったになりますが、実際の私は「〜がしたい。でも、〜があるし、〜は無理だしなぁ」と二の足を踏みまくる、弱気な行動が目立つように思えます。ところが最近、どうせ無駄になるのでも、当たって砕けるのもまた一興という、今までの自分では考えられないような思考が生まれ始めました。これはこれで強気なので、この流れに乗ってみようじゃないかと、今色々と現実世界で画策しております。躁病の前兆とかだったらやだなぁ。
 今年は強気。朝焼けと宇宙とケモノ。ご期待ください。

 (記載日:2010/2/13)


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