少々、回りくどくて面倒くさい話をします。鬱にもなるかも知れません。そういったものが苦手である方、またそういったものを見て「キモスwwww」などと笑い物にしたい方は、誠に勝手ながらご遠慮願います。


 人生というものを長い道だと仮定するならば、人間はその上を歩いていることになるのでしょうか。よく、人生の曲がり道や人生の分かれ道などという言葉を耳にしますが、これは人生を道と仮定することが一般的だと言う証拠だと言えます。もしこの道が時間のような、一方向にしか流れないものとするならば、立ち止まることは許されないだろうし、逆方向に進むことも許されないでしょう。
 人にはポリシーや記憶、友人関係などのものが覆い被さっています。人生を歩くときには、これらのものを持ち歩いているとも言えます。もちろん、周りにいる人間や環境によって、着るものを替えてみたり、別の物を拾ってみたり、または捨ててみたり。私も思い返してみると、大きく膨らんだリュックサックを担いでいるようです。久々にその中を少々整理してみたのですが、大きな空洞が2つ3つ空いている部分があることに気が付きました。
 なんでリュックサックを整理する気になったのか、と自己嫌悪に陥るほどの気持ち。その空洞を見つけてしまったとき、私はそれを見ることを避けていたことを思い出しました。元々、そこには大事なものが詰まっていました。片方の大事なものは、日常的によく見たり使用したりするもので、あるのが当然のことのように思っていました。毎日使っているわけですし、使わない日の方が珍しいぐらいでしたから、だんだんとそれに依存していたのかも知れません。否、依存していたと言い切っても問題はないでしょう。このままでは話を展開するのが面倒なので、これを仮に空洞A、もう1つを空洞Bとでもしましょうか。
 空洞Aのことが私は大好きでした。持ち歩いていても重いとは感じない。スペースを取っても疎ましいとも感じない。むしろそれのために、わざわざリュックの中にスペースを作ったり、歩く道筋を変えたりもしました。ぱっと見壊れやすいものでもなく、かといって丈夫なものでもなく、たまには壊してしまうこともありましたが、泣きそうになりながらすぐ修理したのを覚えています。空洞Aは様々な副産物を私にくれました。これのおかげで、リュックに他の物を入れたりもしました。しかし、それらは私が自己中心的な扱いをしたせいで大抵壊れてしまいました。直したくても、今の私にはそれをする術はありませんし、そのときには壊れたことにすら気づいていませんでした。それに、空洞Aがあれば問題はないとすら思っていました。
 空洞Aが残骸と空洞になったのは、本当に唐突で偶然なことでした。予兆は本当にわずかにしかありませんでした。私が修復する間もなく、空洞Aは粉々に砕け散ってしまいました。これが壊れてしまうことを伝える予兆や、直すことができる方法は、今の私には両手足の指で数えられぬほど思い当たります。しかし、今の私が壊れた時に戻れるわけでもない。結果論を喚いても糞の役にすら立ちません。最初、壊れてしまったことは嘘だと思っていました。希望というには滑稽な根拠もありましたし、壊れていないでほしいと願う心が逃避へと私を追いやったからです。「それ」が壊れていると私が完璧に知り、直す方法が皆無である、手遅れであることを知ったとき、私は泣きました。泣いても戻ってはこないことも知っていたし、自分はずっと「それ」なしで生きていかなければならないことも知っていました。ただ、私は「それ」を毎日使用しておきながら、使用していた感謝の言葉すら言うことは出来ませんでした。泣くことしか出来ませんでした。
 空洞Bに関しては、前々から予兆がありました。だから、私は諦めもついていました。ただ出来るならば空洞Bに、私が大事にしていたいと思っていた、実際に大事にはしていなかったかも知れないけれど、本当にごめん、と意志を伝えたいと思っていました。ところが、私は空洞Bを持ち歩いていたにも関わらず、他の物が邪魔になって空洞Bを手に取ることすら…いや、見ることすら出来ない状況にいました。空洞Bが残骸と空洞となったとき、私は泣きませんでしたが、後悔という名のナイフがそこかしこから飛び交い、私の皮膚を切り裂き、内蔵に突き刺さりました。痛くて溜まらないのだけれど、私はナイフを無理矢理引き抜き、歩き続けることにしました。ナイフを突き立てたままにして、痛いのは刺さっているからだしょうがないと開き直ることも出来たでしょうが、そんなことはしたくありませんでした。
 形有る物はいつか壊れる、と言います。当然のことであるでしょうが、私はそうあってほしくなかった。否、自分が壊れて必要なくなるまで、形があってほしかった。もちろん、そんな我が儘が通るはずもなく、壊れるものは壊れる時期がきたら壊れてしまいます。大事なものであればあるほど、残骸を捨てることもできなければ、それによって出来た空洞を埋めることも出来ません。使うのが当たり前になっていたり、それに未練が残ってるとき、たまに自分の心がそれを欲します。水を求める砂漠の旅人のように。しかし、赤子のように泣いても、暴君のように怒っても何かに暴力を振るっても、それが既に「絶対に」手に入らないということを思い出すと、絶望が身を包むのです。
 逆に、捨ててしまいたいものもリュックの中には入っています。そういったものに限って、粘着性があったり、触れることが出来なかったりで、捨てることが出来ません。既に自分と無関係な位置にあるものすら、外に追い出すことは出来ないのです。いつまでも持っておきたいものは壊れてしまうのに、そういったものはなかなか壊れることもない。もちろん、自分の意志でそれらを捨てたこともあります。ですが、なぜかリュックの中を見れば、小さくなっていたりフックがひっかかっていたりで残っています。不公平だとしか言いようがありません。
 捨てたくないのに捨ててしまった、壊れてほしくないのに壊れて後悔している、未練がある…そんな思いを持っているのは、私だけではないはずです。だから、私は娯楽として、少しだけの使命感を持って、小説を書きます。仮想現実だと言えばそれまででしょうが、私が持っている小さな力を使って、仮想現実に永遠の命を与えることぐらいは、許してくれるでしょう。おーばー・ざ・ぺがさすの例で言えば、アリサは竜馬が大好きだし、竜馬が死ぬとも思っていない。私はアリサが好きだし、竜馬も好きですから、その通りにしてあげたい。ええ、傲慢です。いくら自分のキャラとは言え、自己正義や自己の満足感を与えているわけですから。自分の幸せはこうだから、と他者に押しつけているわけですから。でも私は、正義とか悪とか関係なく、幸せが来ればいいだけだからこれでいいんです。そして、私の書いた話を読んで、誰かが幸せになってくれれば、とても嬉しいんです。
 今回は長々とすみません。特に何があったわけでもないのに、こんなことを書いてしまいました。皆様に、幸せが来ますように。

 (記載日:2008/1/29)


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