猫大使様
その9 「猫大使様問いつめなさる」の巻


「よし…」
 私、羽道晴美。日本人、痩せ形、そして黒いロングヘアのフリーター女は、あるビルの前に立っていた。ぴしっとしたスーツに、ばしっときめた化粧でだ。隣には、焼く前の餅のような白さの猫である猫大使と、白い肌に金色の髪をした中性的な少年であるジュエフがいる。私たち3人は、現在共同生活をしている仲だ。このビルにやってきたのには、理由がある。
 この少年ジュエフと猫大使は、現世の生き物ではなく、冥界からやってきた連中なのである。猫大使は人間界への大使であり、猫のクセに言葉を喋れる。そしてジュエフは家出少年である。今回の用事は、ジュエフに深く関わることだ。
 ジュエフは冥界の孤児院にて生活をしており、いじめが苦になり孤児院を出た。そして、冥界の悪魔が出現するような危険な地域に行き、大変な目にあった。今は紆余曲折を経て、私のアパートで生活をしている。そして、いじめをまた受けては大変だと、別の孤児院に彼を引き取ってもらう算段まで立っていた。
 しかし、彼の話を聞く限りであると、どうも前半は間違いであるらしい。いじめなど起きていないし、彼は自発的に家出をしたわけではないらしい。そしてジュエフは、別の孤児院においやられるという話を聞いたとき、私と猫大使に強い不信感を持ってしまったらしいのだ。そんな状況であるならば、私だって不信感を持つ。
 そこで、冥界のとある国との仲介をしていたカネオという男に、私たち3人は話を聞きにきたのだ。これはジュエフの行き先に関する話であり、早くに決めなければいけない話である。そうしなければ、彼はずっと私のアパートに住みっぱなしになり、故郷に帰ることすら出来なくなってしまうのだ。いや、もし帰ることが出来るとしても、彼の望む形で帰ることは出来ないだろう。
「さて、どのような話になることやら」
 エレベータに乗った猫大使は、尻尾をぱったんと振った。
「わからないけど、面倒なことにならなければいいね」
 少し緊張してきた私は、小さく咳払いをした。カネオが悪い男ではないのは雰囲気から理解しているが、胡散臭い男であることも確かである。嫌が応にも緊張するというものだ。
 ちーん
 エレベータが目的の階層へ到着し、間の抜けた音を出した。私はブラウスの襟を正し、足を踏み出した。猫大使が私の前を、とててと駆けていく。
 こんこん
 目的のオフィスのドアをノックする私。程なくして、中から秘書の女性が出てきた。細い体に三角の目で、メガネをかけている。そんなつもりはないのだろうが、きつい印象を受ける人だ。
「えーと、ジュエフの件で…」
「承知しております。どうぞ」
 私たち3人は中に通され、ソファに座らされた。応接室の中には、カネオの姿は見あたらない。行くことを連絡してあったから、待っているかと思われたが、そうではない様子だ。
「カネオは現在、外へ出ております。数分もしたら戻ると思いますので、それまでお待ちください」
 秘書はそれだけ言って、隣の部屋へ引っ込んだ。なんだか居心地が悪くなった私は、足を組み、周りを見回した。特におかしなところなどない、ただのオフィスの一室だ。漂ってくるのは、建材の匂いだろうか。それと、コーヒーの…。
『コーヒー?』
 がちゃ
 疑問符を浮かべたとたん、秘書が現れ、カップを3つ持ってきた。慌てて足を直した私は、咳払いをした。秘書の持つ、湯気の立つカップが、コーヒーの匂いの源流のようだ。私、ジュエフ、そして猫大使の前にカップを1つずつ置き、角砂糖と粉クリームの瓶を置く。
「カネオが帰って来る前に、私の方から言っておかねばならないことがあります」
 私たちの向かい側に秘書は座った。その座り方があまりにもきっちりしていて、私はまた居心地が悪くなった。
「まず、ジュエフのいじめの情報についてです。これの出所なのですが、私たちはジュエフの入っていた児童養護施設の院長からそれを聞いていました。今回家出をしたのも、そのためだと」
「はあ…でも、実際は違っていたんですよ。ここから、どうなるんでしょうか?」
 秘書の言葉を、コーヒーを飲みながら聞く私。このコーヒーはとても良い物…のような気がする。プロのコーヒーソムリエならば、産地まで言い当てるのだろうが、あいにくと私の平凡な舌ではそんなこと出来ない。ただ、インスタントコーヒーと違うものだということはよく理解できた。
「どうなるか、ではありません。どうするか、です」
 微妙なニュアンスの違いを、秘書が言い直した。
「ジュエフ、あなたに質問です。あなたは何故、家出をする必要があったのですか?」
 語調を変えずに、続けてジュエフに聞く秘書。ジュエフは何も喋らない。
「いじめはなかったというならば、何か理由があるのですか。それを把握しておきたいのです。辛いようならば言わないでも問題はありませんが」
 秘書の言葉は、どこまで行ってもストレートだった。そして、私の疑問も一緒に乗せて、ジュエフに投げてくれた。何故、家出をする必要があったのか。私も知りたいのだ。猫大使も同じ気持ちのようで、ジュエフの方をじっと見つめていた。
 ジュエフは、俯いた。そして…。
「…よくわからないんです」
 そして、申し訳なさそうに言った。
「わからない、と?」
 秘書の目が鋭くなる。
「僕は、家出をしたということは覚えているんです。でも、具体的にどうやって家出をしたとか、なんでかとか、そういうことは覚えていないんです。気が付くと、知らない場所をふらふらしてて。しかも、ろくに荷物も持っていなかったんです」
 そんな馬鹿な話が、と言いそうになって、私は口を押さえた。自分の意志でなく、ふらふらと出ていくだなんて、そんな話があるのだろうか。いや、心当たりはある。
「夢遊病、とか?」
 ジュエフに聞くが、ジュエフは首を横に振った。
「そういう類の病気は持っていないはずなので、本当にわからなくて…それにです。計画的にしろ、そうでないにしろ、家出をするならバッグくらいは持っていくはずでしょう?僕、何も持ってなかったんです。ポケットに入っていた、ほんの少しの道具だけで…」
 申し訳なさそうに、ジュエフが俯いた。
「気付いたときに、そこから施設へ帰ることは?」
「出来ませんでした。どこをどう行けば、知っている場所に出るのか、わからなかったんです…」
「なるほど…」
 秘書はジュエフの言葉を聞き、自身の唇に親指を当てた。
「全くもって、不可解な話です。ふらふらと、知らない場所へ、と。まあ、今はそれは置いておきましょう」
 こほん、と秘書は咳払いをした。
「では、施設ではいじめ等は実際になかったと報告して良いのですね?」
「はい、大丈夫です」
 秘書の問いに頷くジュエフ。彼女は懐から紙を出し、さらさらと何かを書いた。
「ジュエフに、冥界へと帰ってもらうのは、ずいぶん先になりそうです。羽道さん、これを」
 差し出された紙を受け取る私。紙の中央に、四角いマスが横にいくつか並んでいて、そこに数字が書かれている。そして上には「小切手」と文字が書かれていた。
「え!これって!」
「ジュエフの当面の生活費です。申し訳ございませんが、まだジュエフを預かっていただくことになりそうなので」
 書かれている数字はかなり大きなものだ。前回もお金を受け取っているのに、今回も受け取ってしまっていいのだろうか。不安が募る。
「で、でも…」
 がちゃ
「ただいまー」
 私が困惑していると、後ろでドアが開く音がして、男の声が響いた。振り返るとそこには、ダブルのスーツを着て中折れ帽を被った、太った中年男がいて、コートを脱いでいるところだった。この男こそ、このオフィスの主、カネオである。
「あ、大使様に晴美はん、それにジュエフやないですか。もう来てはったんですか。いやあ、遅うなって申し訳ありまへんなあ」
 頭を掻き、謝罪をするその姿は、どことなくトドに似ている。一言で言えば「おっさん」なのだが、どことなく愛嬌のある男だ。
「現在、ジュエフのことについて話をしていたところです」
「そうでっか。で、どんな話に?」
 秘書の隣に、カネオが座る。秘書はすっと立ち、今までの話の流れを、理路整然とカネオに説明した。この秘書、見た目は冷たい女だが、かなりデキるようだ。
「ふうむ。気付いたらしらんところにおった、と。不思議な話やなあ。ほんまかいな」
 難しい顔をして、カネオが悩み始めた。
「ええ。ジュエフが嘘をついていなければ、本当の話です」
「嘘をつく理由があらへんがな」
「さあ。私からはなんとも」
 怪訝そうな顔をするカネオに、秘書がさらりと言葉を返す。私はその物言いにむっとした。ジュエフが嘘をついているはずがない。そもそも、この状況で嘘をついてメリットなんてないのだ。
「嘘をついていなければ、か。そうだな」
 今まで黙っていた猫大使が、ぽつりと呟く。
「…」
 ジュエフは居づらくなってしまったようで、俯いて黙り込んでしまった。なんだかいらいらする。ジュエフが悪いような空気だ。でも、私はどう言うべきかわからなくて、ただコーヒーを飲んでいた。確かに美味しい。でも、今の空気で飲んでも美味しくはない。
「…ま、そこは今の問題とちゃうわ。問題は、向こうの院長が何を勘違いなさったやな」
 ぽん、と膝を叩き、カネオが言う。
「一応、もう先方と話はしております。でも、院長含め他の先生方も、みんなジュエフがいじめられていた子であったと、口を揃えて言いよりますわ。おかしいがな」
「そうだな、おかしい。ジュエフはいじめなどないと、はっきりと否定をした。悪いが、向こうと再度コンタクトを取ってくれないか」
「了解ですわ。何か進展があったらご報告いたします」
 猫大使は顔をコーヒーのカップに突っ込み、コーヒーを飲んでいる。そしてカネオは、顔を撫でて立ち上がった。ふいっと、猫大使はイスから降りて、出口へ向かう。
「えっと、あの、これ…」
 カネオの方へ小切手を差し出そうとする私を、秘書が制した。
「こちらから面倒をお願いしているのです、それぐらいは受け取ってください。むしろ、そうしていただかなければ、こちらも困ります」
 はっきりとした秘書の口調に…。
「はい…」
 としか、私は言えなかったのだった。


「あったまくるなあ。何、あの態度」
 普段着に着替えた私は、アパートの電灯の下で、パソコン相手に小切手の換金方を聞いていた。ジュエフはキッチンで料理中で、猫大使はごろごろしている。
「嘘をついていなければ、なんて。嘘つく理由がないわよ。馬鹿じゃないの」
 かたん!
 キーボードを打ち込む手に力が入ってしまう。
「疑ってしまうクセというのはあるものじゃ。そう声を荒げるでない」
 ごろん
 猫大使が腹を見せている。この猫、こっちがこんなにいらいらしているときにまで、こんな態度を取るとは。
 べしぃん!
「ふげ!」
 とりあえず、その腹を平手打ちしておく。
「何をする!」
「ノミがいるように見えたから。でも気のせいだった。ごめーんね」
 怒って抗議する猫大使を、私は軽くあしらった。
「実際、どうなのだ。あれは、嘘か誠か」
 猫大使が、包丁を使っているジュエフに聞く。
「本当ですよ。疑ってるんですか?」
「まあ、な。少々、現実味が薄れる話だからな」
「それは、そうですよね…」
 かちゃ
 包丁を置いたジュエフは、刻んだ白菜を中華鍋に放り込んだ。今日は、中華丼だ。本当なら私が作るはずだったのが、ジュエフが手伝いたいと言うので、料理の練習もかねて作らることにしたのだ。もしおかしな手順などで、ひどいことになりそうならば、すぐに止めに入れるようにスタンバイはしているので、問題はない。
「これで謎が2つに増えたわけか。ジュエフが家出をした顛末と、いじめの事。納得行く結果に終わればいいんだけど…」
 かたん
 エンターキーをを押し、私は呟いた。
「あれかな。超能力とか魔法で、ジュエフが操られてたの。どう?」
 ジュエフの鍋捌きを見ながら、私は猫大使に聞いた。
「誰かが魔法で、どっかいけーって命令したせいで、知らない場所に行ったと。だから、ジュエフは覚えていなくて…なーんてね。嘘嘘…」
 冗談に決まっている。もちろん、そんなことが起きようはずもない。どこのファンタジー世界の話だ、と自分で呆れてしまう。
『いや?』
 ファンタジー世界、という言葉に、私はちくりと何かを感じた。考えれば、冥界なんて世界の存在も、十分ファンタジーと言っていいのではないだろうか。
「…まさか、ねえ?」
 と言いながら猫大使を見ると、猫大使は香箱を組んでじっとしていた。
「無い話ではない。が、魔法使いなんて存在、そういるものではないだろう」
「まさか、冥界だと魔法がリアルに存在するの?」
 私は、顔に薄ら笑いを張り付けたまま、猫大使に聞く。こんな顔をしているのは、半分はまだ冗談だと思っているからだ。
「冥界に限らん。こっちにだって、魔法や超能力を使えるものはいるだろう」
「そりゃあ、アニメとか特撮だったら…テレビで見たんでしょ?」
「違う。お前はその存在を知らないのか…いや、知っている方がおかしいのじゃな、こちらでは」
 ぱったん、と猫大使が尻尾を振った。大真面目にそんなことを言うなんて、どう反応すればいいのか、困ってしまうではないか。
「実際にやって見せるのが早い。晴美。そのコップの中身はなんだ?」
 猫大使は、テーブルの上に置いてあったコップを指さす。
「えーと、ただの水、だけど。何か?」
「ま、見ておれ」
 猫大使はテーブルの上に乗り、コップのふちに鼻を付けた。そして、怒った猫のように唸り始めた。と…
 ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ…
 水の表面が波打ち始めた。声の振動でだろうか。猫大使はしばらくそんなことをしていたが、ふいっとテーブルから降りた。
「飲んでみよ」
 言われるがままに、私はそのコップに口を…
「うえっ」
 付けはしたが、中を飲むことは出来なかった。かなり強いアルコールの臭いだ。まるで、消毒用アルコールみたいな。
「飲まんのか?」
「飲まない。こんなきついの無理。なに、これ」
 私はコップの中に、間違えて酒を入れていたのかと思ったが、こんなきつい酒は持っていないことを思い出した。
「中身を半分、アルコールへと変えた。これが魔法よ」
 ふふん、と猫大使が鼻を鳴らした。
「すごいね。お酒飲み放題じゃん」
「それは無理だな」
 感心しきりの私に、猫大使が顔をしかめる。
「エネルギーを使うんですよ。それは、食事で得られる栄養よりよっぽど多い。だから、効率が悪いんです」
 かたん
 中華鍋を下ろしたジュエフが、当然のことのように言った。冥界では、魔法に対する教育もしているのだろうか。私だって魔法を使ってみたい、と思ってしまう。
「冗談で言ったことが、本当に出来るなんて。すごいねえ」
「魔法だって万能ではないが、様々なことが出来る。ジュエフを操ってうんぬんというのは、不可能ではない。そうすると、誰がなんの目的で、と言うところが気になる」
 そこは確かに問題だ。が、しかし。向こうの孤児院の様子というのを、私はよく知らないので、どんなことが内部で起きていたかを想像するのは難しい。
「飲まぬのか。せっかく作ったのに。まあいい、ワシがもらうぞ」
 猫大使は顔をコップに突っ込み、酒を舐め始めた。例えば、猫大使が今見せた、酒を造る魔法。このようなものならば、まだ想像は出来る。元素がどうとか、そんなことを考えてやればいいのだろう。だが、人の思考を操るとは、どうやってるのだろうか。
「出来ました。ご飯にしましょう」
 そんな私の思考を、ジュエフの声が中断させた。このことは、また別の日に考えることとしよう。出せるカードが少なすぎる。彼が作った中華丼は、なかなかどうして美味しそうだ。
「じゃあ、その鍋をちょうだい。ジュエフはご飯をよそってくれる?」
「はい、どうぞ」
 ジュエフが差し出した鍋を、私は受け取った。と。
「うっ!?」
 ずしっ、と重さが手に来てしまった。まさかこんな重いとは。ジュエフは平気な顔をして持っているから、大丈夫だと思ったのだが。
「重いいいいい、テーブルに!」
 テーブルの上には確か古雑誌が置いてあったはず。そこに乗せれば楽になる。そう、楽に…
「お、おい!」
「え?」
 しかしそこには先客がいたのだ。そう、酒を飲んでいた猫大使が。しかし、私の手は止まらず…
 どすん!
「あぢいいいいいいいいいい!!」
 猫大使は、鍋の熱の犠牲になってしまったのだった。


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