猫大使様
その8 「猫大使様問いつめを決意する」の巻


 部屋の中がどんよりしているように感じられるのは、日が沈んでいるからでも、どことなく部屋の中に湿気が溜まっているからでもない。ベッドに三角座りをして、何も言わずにじっとしている金髪色白少年、ジュエフのせいだ。私、羽道晴美はそのジュエフの方を出来るだけ見ずに、雪のように白い喋る猫、猫大使をだっこして書類を書いている。しかし、あまり広くないアパートの一室は既にジュエフの放つダークなオーラに包まれており、逃げ場はなかった。
「…」
 彼は何も言わず、じっとしていた。彼は冥界のさる国の孤児院にいた少年である、家出をして、放浪して辛い目に遭った後、こちらへと来ることになったのだ。孤児院内では彼に対していじめが行われており、それが家出の原因らしい。私はこの子を、一ヶ月の間、ここで預かっていた。
 その間に、これ以上いじめられないようにと、孤児院側は転院をさせることを決定した。しかし、転院先の別の孤児院の院長が犯罪を犯して逮捕され、彼は行き場を無くしてしまった。そして結局ここに戻ってきて、現在に至る。
 ジュエフをもう一度預かる話を、冥界と現世の橋渡しをするカネオという男の元でしていたとき、彼はどことなく無関心な顔をしていた。まるで自分のことではなく、他人の話でも聞いているかのような顔をしていた。そして私のアパートへ帰って来てから、元々無口だったジュエフが輪をかけて何も言わなくなってしまい、現在に至る。
 話しかければ返事をするのだが、その返事すら生返事だ。何か思うところがあったのだろうか。
『もーあかんて!』
『あかんわけあるか、アホか!』
 テレビで芸人がコントをしている。普段ならば笑うようなやりとりで、面白くはあるのだが、笑うのをためらってしまう。
 ピピピピ
 甲高い音が部屋の中に響き渡った。猫大使が、どこからともなく携帯電話を出し、電話を始める。
「ああ。ああ。え?…多少難しいが、不可能ではない」
 誰と電話をしているのかわからないが、何か相談をされているようだ。猫大使は難しい顔をして、半ば折り畳んだ状態の携帯電話に頭を挟んでいる。しばらくして、電話を終えた猫大使は携帯電話をどこへともなくしまい込み、4つ足で立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
 猫大使は私のあぐらの上から退くと、すたすたとどこかへ行ってしまった。ああ、置いていかないで、と言いたくなる気持ちをこらえる。この暗い空気の中、残されるのは辛い。
「…」
 相変わらず、ジュエフは何も言わない。やりきれない気持ちになった私は、パソコンでインターネットをするフリをしながら、どうしたものか考え始めた。玄関の扉が開き、猫大使が外に出ていく音が聞こえる。
 かちっ
 何の気無しにクリックしたニュースでは、相撲取りを引退し芸人になった男が、ちゃんこ鍋の店を開くというニュースをやっていた。大きな鍋の看板が店には掲げられていた。寒い時期だ、鍋はさぞかし美味しいことだろう。
「そうだ、今晩はお鍋にしようか。どう?」
 私はジュエフに提案した。何か話題を作って話しかけないと、この重い空気は払拭できないと思ったのだ。
「…いいんじゃないですか」
 ジュエフがぼそぼそした声で返事をする。
「何を入れようか。海鮮鍋とか美味しそうだよね。鱈とか入れてさ」
「ええ…」
「昆布で出汁を取ってさ。鮭とかも入れよう。後は、ネギとか白滝とか」
「そうですね…」
「白滝とかこんにゃくは安くて量が多くなってカロリーも低いしね。あ、ジャガイモも入れようか。ジュエフはお鍋作るときにジャガイモが入ってても大丈夫なタイプ?」
「一応…」
 だめだ、会話にならない。私が一方的にまくし立てているだけだ。これじゃあ、面白くない。
「じゃあさ、買い物行こうよ。何入れるか、考えながらさ」
 私は立ち上がり、大きく伸びをした。ジュエフが何も言わず立ち上がる。彼を預かるときに受け取った紙袋から、コートを出した私は、彼に手渡した。
 がちゃ
 外に出ると、冷たい風が私たちに挨拶した。もう冬になったかならないかというこの時期だ、外は寒かった。部屋のカギを閉め、スーパーへ向かう私とジュエフ。どうも今日は、ジュエフがずっとダークなオーラを流していたせいか、外の空気がどことなく爽快に感じられた。


「で、お前達はワシのことを忘れて、30分も買い物しておったわけじゃな」
 猫大使がしっぽをぱったんぱったんと振っている。
「ごめんごめん、だって猫大使が帰ってくるのは遅いと思ってたから」
 片付けたこたつの上に出したカセットコンロの用意をしながら、私が謝った。キッチンでは、ジュエフがネギや白菜などの野菜を刻んでいる。
「全く。窓も開いていないし、部屋のカギも空いていない。どうしたものかと思ったぞ」
「スペアキー持ってるんじゃないの?」
「部屋に置いてあったから開けられなんだ。全く、お前と言うやつは」
 ぶちぶちと文句を言う猫大使。この猫、こういうところでは性格が悪い。まあ、本当は猫ではなく、人形態にもなれるらしいのだが…。
『いけない』
 思い出してしまった。人形態の猫大使は、私好みのイケメンなのだった。思い出すと恥ずかしくなるから思い出さないようにしているのに。思い出したが最後、猫大使のことが気になってしまう。私が猫大使の人間形態を知っていることを、彼は知らないはずだ。だから、私が時折顔を赤くするのを見て、腑に落ちない顔をするのだった。
「出来ました」
 ジュエフが野菜を持ってきた。同時に、私はカセットコンロに火を付けることに成功した。
「ありがとう」
 ボウルに入れられた野菜をこたつの上に置いて、私は横から鍋を取りだした。大きな鍋をコンロの上に置き、その中に海鮮鍋の元を流し込む。そして、適当に野菜と魚を入れた。
「後は待つだけ」
 皿と箸を置き、私は言った。肉は野菜のボリュームが減ったところで投入しないと、アクが取れなくなってしまう。かといって先に肉だけ煮ると、最後の方には固くなってしまう。タイミングが重要だ。
「…」
 ジュエフは仕事を終え、また暗い彼に戻ってしまったらしく、こたつに入って黙り込んだ。
「…」
 ぽん
 私は何も言わず、ジュエフの頭に手を置いた。ジュエフも何も言わず、私の手を払いのけた。
「む」
 もう一度手を置く。払いのける。また手を置く。払いのける。そんなことを、4〜5度ほど繰り返しただろうか。猫大使が、唐突に鍋の中にお玉を突っ込んだ。
 じゃぽん!
「うぁっちい!」
 その突っ込み方が急だったため、私の手の甲に熱湯が飛んだ。あまりの熱さに、私が叫び声をあげる。いきなり私が大きな声をあげたせいで、ジュエフは驚き、目を丸くして私の方を見た。
「っぷく」
 その顔が、小さい頃にテレビで見た、リスのキャラクターが驚いた顔にそっくりで。
「あっはっはっはっは!」
 私は思わず笑ってしまった。そのリスのキャラクターが、どんなアニメのキャラクターだったかすら思い出せないが、その驚き顔がとてもひょうきんだったことだけは覚えている。
「…なんでそんな、笑えるんですか」
 多少なりとも、私の態度が気にくわなかった様子で、ジュエフが嫌そうな顔をした。
「ごめんね。ちょっと、昔面白かったこととリンクして、思い出し笑い」
 またぽんぽんと頭を叩く。
「羽道さん、僕のこと嫌いでしょ」
「そんなことないよ。どうしてそう思うの?」
 あからさまに不機嫌な顔をしているジュエフに、私が問う。
「だって羽道さん、僕をどっかへやろうとしたから…」
 え、と私は凍り付いた。彼は何を言っているのだろうか。私が何か、そんなことを考えさせるようなことをしたのだろうか。
「ほら、煮えたぞ」
 猫大使が両手でお玉を操り、私とジュエフの皿に海鮮鍋を流し込んだ。そして、私の向かい側に座り、鍋を食べ始めた。
「あ、ありがと…」
 私がお礼を言う。ジュエフは何も言わず、皿を受け取り、食べ始めた。
「…別にどっかへやろうとしてないよ。ジュエフ、どうしてそう思ったの?」
「だって、どっか知らないところに、僕を追いやろうとしたじゃないですか」
 むすっとした顔で、ジュエフは豆腐を食べた。
「そんなことないよー。どうして?」
「僕は、前の家に戻れると思っていたんです。なのに…」
「え?」
 前の家に戻れると思っていた?
「ま、前の家に戻りたかったの?」
 私は、取り落としたネギを箸で摘み直し、ジュエフに聞いた。
「それ以外、何があるんですか」
「で、でも…」
 助けを求め、私は猫大使の方を見た。猫大使は皿に顔を突っ込み、はぐはぐと食事をしていたが、ぺろりんと口の周りを舐め、顔を上げた。
「実はだな、ワシと晴美が聞いたところによると、お前は孤児院でいじめを受けて家出をしたと聞いていたのだ。だから、元の孤児院に帰りたいと言うお前の言葉に驚いてしまってな」
「いじめ?」
「そうだ。あまりこのことを話題にしない方がいいと思って、ワシと晴美はその話をしなかった。違うのか?」
 ジュエフが首を横に振る。一体、どういうことなのだろうか。
「そうか。それでお前はどこかへ追いやられると思ったのだな」
 猫大使が下を見つめ、ふうと息をついた。
「いじめを受けていて辛いだろうから、ジュエフが別のところで暮らせるように、1ヶ月の間にいろいろ手続きをしていたんだけど…」
 なんとなく罪悪感を感じ、私の声も小さくなった。隠さずに、前もって話をしておけば、こんなことにもならなかったのかもしれない。
「僕は、てっきり羽道さんと猫大使がそれを考えていたのかと思ったんですが…」
「そんなことしないよ」
「そう、でしたか」
 どうもおかしな話だ。この話を持ち出したカネオが何かを企んでいたのだろうか。しかし、こんな少年1人を貶めて何か意味があるのかと考えると、よくわからない。
「これは、カネオに聞く必要があるな」
 猫大使も同じことを考えていたようだ。私は頷いて、肉を食べる。
 ジュエフの消極的な声に、私はきっぱりと言い切った。
「じゃあ、ま。明後日、カネオのところへ行く予定があるから、そのときに聞くとしようか」
「そうだね。うん」
 真相を知らねばならない。なんだか怖い気がする。だけど、彼の処遇が決まらないと、私たちも困るし、ジュエフが一番困るのだ。
「…その、カネオさんのところへ、僕も行っていいですか?」
「もちろんだ。一緒に聞きに行こう。ジュエフが一番の当事者だろう」
 ジュエフの皿に、猫大使がお玉を使い、肉を取り分けた。
「ジュエフ。何かあっても、ワシがなんとかしよう。お前は、お前の持つ疑問をぶつけるがいい。ワシも、聞きたいことはちゃんと聞く」
 力強い口調の猫大使に、私は驚いた。彼も、言うときにはちゃんと言う人…いや、猫なのだということを知った。 
「ん?」
 猫大使の手が汚れている。何か踏んだのだろうか。
「猫大使、手、汚れてる。拭いて上げるから出しなさい」
「ん?悪いな」
 猫大使がにょーんと伸び、鍋越しに手を出した。私はその手を取り、拭う。と…。
 べちゃあん!
「ぶあっちいいいいいいい!」
 伸びすぎたのがいけなかったのだ。猫大使はバランスを崩して、鍋の横に腹をぶつけてしまった。
「うわあああ!みずみずみず!」
「あちいい!あついいいいい!」
 慌てた私が水を探し、猫大使がごろごろ転がる。慌てた私は、風呂場にあったバケツに中途半端に入っていた水を持ってきて、猫大使を掴んでその中に突っ込んだ。
「つめたいいいいいいい!」
「がまん!火傷よりマシ!」
 ばちゃばちゃと慌てて暴れる猫大使を、私は無理矢理に水の中に押さえつけた。猫大使はしばらくは暴れていたが、だんだんとおとなしくなり、とうとうぐったりとしてしまった。私はその猫大使を引っ張り上げて、タオルでぐにぐにした。
『こんなんで大丈夫なのかな』
 さっきの評価を、撤回する必要がありそうだ。これでは先が思いやられてしまう、と私は思うのだった…。


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