猫大使様
その7 「猫大使もう一度預かる」の巻


「なあ…ジュエフ。あやつに何かあったのか?」
 高めの声がする。声を潜めているつもりだろうが、ばっちり聞こえている。
「わかりません…まだ怒ってるのかな…」
 少年の声がする。こちらもばっちり聞こえている。ヘッドフォンはつけているが、音楽は流していないのだ。
 私の名前は羽道晴美。イラストレーター志望のフリーター。年齢は秘密、性別は女の子、自他共に認める痩せ形の体型に、黒くてややうっとおしい長めの髪をしている。
 最初の高い声は、私と共に暮らす白猫、猫大使だ。後の声は、同じく私と共に暮らす、金髪碧眼の痩せた少年、ジュエフである。
 今、私はヘッドフォンを付け、音楽を聴いているフリをしながら絵の練習をしている。猫大使が言う「何かあったのか」という言葉。それには、理由がある。ここ最近、私の態度が素っ気なく見えて、猫大使はびくびくしているのだ。
 ついこの間、猫大使とケンカをしたとき、猫大使は家出をした。彼の連絡先を知らなかった私は、猫大使と仕事上で付き合いのある、カネオという太った男のところへ行った。カネオのおかげで、猫大使と電話で連絡を取ることが出来て、電話口で仲直りもすることが出来た…のだが、猫大使のとんでもない秘密を知ってから、私は猫大使と普通に接することが出来なくなってしまったのだ。
「やはり、あれかのう。こないだ、箸を落として、描きかけの絵を汚してしまったからかのう」
「そうですねえ…もしかすると、それかも」
「必死扱いて箸を使えるようになったが、まだまだ上手くは使えん。匙を使って食事をした方がいいやも知れぬ」
 猫大使とジュエフの会話を背中に聞きながら、私はシャーペンを走らせ続ける。彼らの言ってることは間違いだ。間違いなのだ。
『だって…』
 だって、この猫。こんな姿をしているが、実はものごっつイケメンの男子になれるのである。
 カネオのところで見た写真に写っていたのは、面食いで有名な私も唸るほどの好男子だった。あんというか、俳優だとかタレントだと言って出てきてもおかしくはないような面をしてやがった。掘りの深めのその顔は、外国人だと言っても通るだろう。そのくせ、髪の色は真っ白で、肌の色は浅黒く、どこのミドルイーストにいたのかという姿だった。
 そもそも、猫大使は冥界の猫だという話だ。外国人風の顔をしていてもおかしくはないのかも知れない。思えば、ジュエフもかわいい顔をしているし、冥界というのはこんな美男子共がうろついているところなのかと邪推してしまう。
 私は猫大使をだっこしてごろごろしたり、彼と一緒にシャワーを浴びたりしていたわけだが、その本体が猫ではなく人、それも男性だと思うと、どうも意識してしまうのだ。どことなく気恥ずかしいのだからしょうがない。
「おい、晴美」
 猫大使が私の背中をその猫手でぐいぐいと押した。
「なに?」
「いや、その、なんだ。そろそろ晩飯だなと思ってな。今日は何にする?」
 猫大使は、プレッシャーに耐えきれず、何でもいいから話したくなったらしい。彼にプレッシャーを与えるつもりはないのだが。
「そうだねえ。何にしようかなー」
 猫大使の顔を見るのが、なんだか気恥ずかしくて、私は絵に目を落としたまま生返事をした。
「そうだ、焼きそばなんてどうだ。お前が前に作った焼きそばは美味かったぞ」
「そうだねえ。それもいいかもね」
「ならば、買い物に行かねばなるまいな。スーパーマーケット隣の八百屋なら、今の時間、野菜が安いのじゃないか?」
「うん。キャベツとニンジンとモヤシと…」
「そうと決まったら、行くか?」
「うーん、そうだねえ」
 私はシャーペンを置き、壁に掛けてあった上着を着た。もう外はかなり寒い、これを着なければ外に出る気になどならない。
「絵、またファイルに入れておかないと、なくなっちゃいますよ」
 ジュエフが絵を渡してくれた。私はそれを受け取り…
「あ」
 固まった。無意識に私は、猫大使の人間バージョンを描いていたらしい。ジュエフはこの顔を知らないが、本人が見ればわかってしまうほどに似てしまっていた。
「絵の方はどうだ、上手く行っているのか?見せてほしい…」
「やだぁ!」
 ぐしゃっ!
「うおっ!?」
 気が付けば、私は手の中の紙をぐしゃっと潰してしまっていた。猫大使が目をまんまるにして驚き、ジュエフが不安そうな顔をしている。
「あ…ご、ごめんごめん。今日のはちょっと、出来が良くなかったから」
 紙をそのままゴミ箱に入れ、私が言った。
「そうですか?写真みたいによく描けてたと思いますよ」
 恐る恐る、と言った様子で、ジュエフが言った。
「あ、ありがと」
 笑いが引きつってしまう。写真、という単語すら、今の私には地雷だった。
「…晴美」
 こほん、と猫大使が咳をした。
「何か、怒らせてしまったのなら謝ろう。この間から、どうもお前はおかしい」
 う、と私が黙り込む。
「まー、なんだ。映画の論議の時も悪かったとは思うし、描きかけの絵に卵焼きを落としたのも悪かったとは思う。だがな、いつまでもそんな態度を取られると、ワシもどう接していいものやら悩んでしまう」
「あー、いやー、そのー…」
「晴美。この際、おかしなプライドを棄てて、お前に接することにしよう。何か、ワシやジュエフが、お前にしてしまったか?」
 懇々と語るその姿は、猫の姿なのに、威風堂々としていた。思えば、学生時代からずっと、まともな恋愛などしていなかったこの身だ。気にしないで接する、というスキルをちゃんと学んでこなかったために、彼には不安な思いをさせてしまったらしい。
「ううん。最近ちょっと、調子が悪いだけなんだ。ごめんねー、猫大使」
 私は猫大使を抱き上げ、頬ずりをした。猫大使は「何でもないならいいんだが…」などと言っている。と、私の目の前に…
「う」
 なんというか、その。ωがあるわけで。
「…ごめん」
「なぜ謝る?」
 私は猫大使を下ろしたのだった。
「まあ、なんだ。ジュエフも来週には、冥界に帰ってしまう。こんなぎくしゃくしたままで別れるのもしゃくに障るからな」
 尻尾を一つ振り、猫大使があくびをした。
「あ、そうか。ジュエフ、来週にはいなくなるのか」
 俯き、何も言わないジュエフ。帰って上手くやれるのか、心配なのだろう。
 彼は施設の子供なのだ。そして、その施設でいじめられていた過去がある。その後、「冥界の悪い方の割れ目」なる恐ろしいところで、「悪魔に襲われ」るハメになり、カネオに拾われたらしい。そのまま戻してもいじめは無くならないだろうと、施設の職員が1ヶ月の時間をくれと言ってきたので、その間は私のところで預かっていたのだ。
 来週にはいなくなる。そう思うと、寂しい気もする。だけど、まあいつかはいなくなると思っていたし。
「と、ともかく。買い物に行きましょう。キャベツとニンジンとモヤシを買わないと」
 ジュエフが身を翻し、玄関へと向かう。彼がこっそりと目を拭っていたのを、私は見逃さなかった。


 最後の昼食はピザだった。私は午前中だけバイトに入り、午後は休むこととした。ジュエフを見送りに行くためだ。ジュエフは、カネオのオフィスまで関係者が迎えに来るらしい。私はスーツを着て、化粧をしっかりして、猫大使とジュエフと共にオフィスに向かった。
「お待ちしておりました」
 メガネをかけた、きつい顔をした秘書が、オフィスの前で私たち3人のことを待っていた。まるで鉛筆か何かみたいに細い女性だ。にこにこしているところを、私はついぞ見たことがない。この人は、私たち3人が来るまでの間、ずっとここで立っていたのだろうか。
「こちらへ」
 秘書がドアを開けてくれた。私たちは、秘書と共に中に入った。座っていたカネオが立ち上がる。
「やあやあ。お時間を取らせて申し訳ありまへんなあ。こちらからお迎えをよこせばよかったんでしょうが、あいにくみんな出払ってましてなあ」
 カネオが愛想のいい笑みを見せる。相変わらず、似非な関西弁を話す男だ。
「出かける用事もあった、大して問題はない」
「そう言ってくださると助かりますわ。なんせ、手足の指の数ほども従業員がおりまへんもんで、人を裂くのが難しかったんですわ」
 素っ気なく返す猫大使の言葉を聞き、カネオがわっはっはと笑う。結局、彼はどんな職業の人間なのか、未だにわからない。この、高層オフィスビルの一室に事務所を構えているという情報しかないのだ。
「それじゃあ、ジュエフはこちらでお預かりしますよって。おい」
「はい」
 秘書が、一つ礼をして、ジュエフを隣の部屋に連れていった。ジュエフはぼーっとしたまま、秘書の成すがままに連れて行かれた。
「いやぁ、預かっていただいて、ほんま助かりましたわ。ジュエフは、大使様のところにおるときは、どうでしたか?」
 カネオが、猫大使と私に着席を促す。私はカネオの向かい側のソファに腰掛けた。このソファはとても良い物に違いない。こんなに座り心地が良いのだから。
「手の掛からぬ、本当にいい子だった。手伝いもよくした」
「そうでっか。いやぁ、心配の必要もなかったようですなあ」
 猫大使の言葉を聞き、カネオも安心したようで、がっはっはと笑った。
「これからジュエフはどうなるんですか?」
 何の気成しに、私が聞く。
「それなんですが…どうも、今の施設のままやと、ジュエフのためになりまへんねや。だから、施設を移動することになります」
「え、そんな簡単に移動出来るんですか?」
「手続きが面倒やってんですわ。だから、1ヶ月のお時間をいただいたと。ジュエフの持ち物はもう移動してるから、ジュエフ本人が移動すれば、それで問題なしですわ」
 ジュエフは孤児で、冥界では施設に入っていたという。その施設で、いじめがあったせいで、戻りづらくなっていたという話だ。別の施設に行くのならば、もういじめもなくなるだろうし、問題はないだろう。
 だけど、私はなんとなく、嫌な感じがした。他に友達もいただろうに、いじめという問題のせいで、ジュエフの方が追い出されるように移動することになってしまったのだ。彼は被害者なのに。
「そうそう。ジュエフの生活費が、出ております。国の方から、出ているのを、円になおしましたんで、どうぞお納めください」
 懐から、封筒を1つ出すカネオ。何の気無しに受け取った私は、驚いてしまった。封筒は立つほど分厚く、中に入っている金額もかなりの額であることが見て取れたからだ。
「こ、こんなにいただけません!」
 気が付くと、私はほとんど悲鳴に近い声をあげていた。
「これは、国から補助が降りておるお金です、別にどこの懐も痛みやしません、受け取ってください」
「く、国って、日本?」
「ちょっとちゃいますな〜。大使様、彼女はこちらの人なんでしたっけ。冥界のことについて、話したことはありまへんのん?」
 カネオの問いに、猫大使は首を横に振った。
「えーと、ん。大使様のおる国と、ジュエフの国は違う国でして、でもこちらにジュエフの国の大使はおらなんだのですわ。だから、外向的に仲の良い、大使様の国がジュエフを一時的に引き取ることになって、わてと大使様が協力して事に当たってたんです」
 裏で、そんな面倒くさい関係が出来ているとは、思わなかった。冥界なんて言い方するから、てっきり猫大使もジュエフも、同じ国籍の人間だと思っていたのだ。
「んん?カネオさんと猫大使は、同じ国の人なんですか?」
「まあ、そうなりますわな。大使様は公務員ですが、わてはただの個人事業主ですわ。本質は輸入業者ですが、依頼次第で何でもやりますよって。あ、でも、物騒なことは御免ですわ、殺しだの盗みだの」
「輸入業者…」
 一体、何を輸入しているというのだろうか。そこがとても気になってしまう。冥界とこちらということは、なにやら危ないものも貿易しているのだろうか。だが…
「そういえば、本業のコーヒーの方は上手く行っているのか?」
「ええ、そりゃあもう。ブラジル産のコーヒーは、よう売れますわ」
 コーヒー!?と私は心の中で突っ込みを入れた。しかもブラジル産だなんて。なんでわざわざ日本に事業所を置いて、冥界にコーヒーを輸入しているのか。わからないことばかりだ。
「それじゃあ、そろそろワシらは帰るか?」
 猫大使が腰をあげた。
「まあ、待ってつかさい。今、秘書がコーヒーを淹れているところですわ。せめてそれが終わるまで…」
 がちゃ
 その噂の秘書が、何も持たずに出てきた。その後ろに、ジュエフがついてくる。
「少々、お話が…」
「なんや。そんな辛気くさい顔をして」
「ええ…」
 秘書が、こしょこしょとカネオの耳元で何かを囁いた。カネオの顔が、一瞬で真顔になる。
「それ、ほんまか?」
「電話を」
 カネオと秘書が、隣の部屋へと入っていく。電話がどうとか言っていたが、何かあったのだろうか。
「邪魔になるかな。帰った方がいいかな?」
「わからぬ。しばし、まとう」
 私と猫大使も、ぼそぼそ会話だ。ジュエフは、ちょっとおろおろしていて、何も言わずに立ちつくしている。
「少々、お待ちください」
 秘書だけが出てきて、深々と頭を下げた。隣の部屋から、カネオの「ええ」「はい」という声が聞こえる。少しして、がちゃんという音と共に、カネオが出てきた。
「大使様」
「やっかいごとなら断ろう」
「んな、殺生な!せめて話だけでも聞いてんか!」
 さらっと言う猫大使に、カネオがぷんすかしながら言った。
「何ですか?また、なにか?」
 私は、猫大使が文句を言えないように、抱きかかえて口を押さえながら聞いた。猫大使はじたばたしているが、この姿ではそんなに力も無く、私の成すがままになっていた。
「実は、いいにくいことなんですが…もうしばらく、ジュエフの方を、預かっていただきたいんですわ」
「ええ?」
「実は…」
 訥々と、カネオが話す。ジュエフが引っ越す先の孤児院は、経営がとても危ういところだったらしい。今回、国からの補助がワンランクアップするのに、後1人の利用者が足りなかったということで、ジュエフが来るのを心待ちにしていたらしい。
 が、しかし。その院長が、脱税をしていたことが当局の調べによって判明した。もちろん、そんな状態で新しく人を呼べるはずもなく、ジュエフは引っ越せないこととなってしまったのだ。荷物はその孤児院に行ったままだが、まだ冥界に帰ることが出来なくなってしまった、という話だ。
「なんともはや…脱税?呆れて物も言えん」
 猫大使が不機嫌に尻尾を振る。
「本当はそれだけちゃいまして、色々あったらしいんですが、情報がまだちゃんと入ってきぃひんので…ともかく、もう少しの間、ジュエフをお預かりしていただきたいんで」
 頭を下げて、額の汗をハンカチで拭うカネオ。ジュエフはと言えば、その間は何も言わなかった。まるで、自分じゃない誰かの話を聞いてるみたいな態度だった。
「わかった。そういう事情なら、致し方ない…」
「ほんま、大使様にはご迷惑を…」
 猫大使とカネオが、何かを話しているが、私の耳には入ってこない。気になるのは、ジュエフの態度だけ。その、自分の話なのに入ってこない、というのは、少々不気味でもあり、気がかりでもあった。しかし、ジュエフを引き取りなおす方向は変わらないようだ。
 これから、どうなるのか。よくわからないけど、私は今夜のご飯を、またジュエフの分も考えて作らなければならないな、と漫然と思っていた。今思えば、このとき私もジュエフのことを「当たり前」みたいに、思っていたのかも知れなかった。


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