猫大使様
その6 「猫大使様喧嘩する」の巻
『ダニー…その、なんていうのかしら。私、別にあなたのこと、どうでもいいと思ってた』
『ミシェル…』
『でもね、あのね。あなたが死にそうって聞いたときから、なんだか怖くなって…』
テレビで流れているのは、地上波初登場とかいう海外恋愛映画だ。私、羽道晴美は、画面に食い入るように2人の恋の行く末を見つめていた。私の膝の上にいる白い猫は、冥界から現世へと来ている大使、猫大使。隣にいる金髪色白の少年は、同じく冥界人のジュエフだ。何の因果か、この1人と1匹が、私のアパートで一緒に住むことになって、結構な時間が経っていた。
『あら、ごめんなさい。なんで、私、泣いているのかしら…』
『もう、やめてくれ。嘘をつく必要なんてない。俺は、もう…』
『嘘なんかじゃない!』
映画の話としては、よくある話だ。幼なじみ同士のダニエルとミッシェルという2人が、アメリカの田舎町に住んでいるところから話が始まる。大人になったミッシェルは都会で就職して、彼氏も出来て、充実した生活を送っていた。ところがある日、変わり果てたちんぴらになったダニエルのことを、街で見かけてしまう。そこから、付かず離れず、もどかしい展開があり、ダニエルが死にそうになって、結局はくっついて…という話だ。
話としては、よくある恋愛映画だと理解はしている。が、やはりこういうものを見てしまうと、何故だか涙が溢れてしまう。だって、悲しいんだもの、しょうがない。
「っく…ぐ…」
声を出さないように我慢しても、声が漏れてしまう。ジュエフは、ぼーっとテレビを見ていて、よくわかっていない様子だ。猫大使は、あまりにも私がめそめそ泣くので、ティッシュの箱を引っ張ってきた。
「ありがと…」
ティッシュで目を拭い、鼻をかむ。テレビ画面に映し出されるのは、ハッピーエンド。そして、最後には2人が連れ立って、生まれた町のメインロードを歩くところで、話は終わった。スタッフロールが流れ、テーマソングが流れる。
「うん…やっぱ、涙出るわ…」
目を擦りながら、私が言う。
「ふん」
猫大使は鼻を鳴らし、ベッドの上に行くと、くてくてと丸くなった。
「いい話だったよねえ」
ベッドの上に猫大使に、同意を求める私だったが、大使は何も言わない。
「せめて返事くらいはしてよー」
ゆさゆさと猫大使を揺さぶると、ようやく猫大使は面倒くさそうに顔をあげた。
「ワシは恋愛物は好かぬ」
「えー?なんでよー?」
「くっつくならくっつく、くっつかないならくっつかないで、はっきりすればいいんじゃ。あの優柔不断具合、見ていて面白いものではないぞ」
ふふん、と鼻を鳴らす猫大使に、私はむかっとした。
「その、もう少しで理解しあってくっついて…っていうのがいいんじゃない。すれ違って、それじゃあダメだって思う、あのもどかしさよ」
「イライラする。白黒はっきりせんか、と怒鳴りつけたくなるわ。しかもなんだ、あの主人公の女の尻軽は。幼なじみが来たぐらいで、今の相手との会話も虚ろになり、最後には別れおったわ」
「それは、あの男にも問題があったでしょ?物で釣ったり、ミッシェルのことを裏では馬鹿にしてたり。結局、別れて当然じゃん」
「そのことを最後までミッシェルは知らなかっただろうが。知っていてあの態度なら許せるものもあろうが。結果論だ、結果論、視聴者の持つ情報と登場人物の持つ情報は違うぞ」
とうとう、私と猫大使は言い合いを始めた。ジュエフがおろおろして、私たちを見ているが、介入するだけの甲斐性は彼にはなかった。
「ふん。たかだか映画の1本や2本で、何を説教されねばならんのか」
猫大使が、最後の言い放った言葉は、堪忍袋の緒を切った。
がしっ!
「うっ!?」
ぶぅん!
「うおおお!?」
びったぁん!
「ぎゃあ!」
猫大使を掴み、持ち抱え、床にたたき落とす。その三拍子の動作が、クリーンに決まった。柔道なら一本勝ち、K-1ならノックアウトまで持ち込むだろう。
「こいつ!」
ばりばりばり!
「きゃー!」
猫大使は私の顔に飛びかかり、私の顔を何度も爪で引っ掻いた。
「何すんのよー!」
「貴様が先に手を出したんだろうが!」
「人の顔引っ掻くなんて信じられない!」
「じゃあ何か、人を掴んで叩きつけるのは信じられるとでも言うつもりか!」
とうとう、とっくみあいの喧嘩になった。猫と人という異種族ではあるが、その争いは熾烈を極めた。
「もうやめてください!」
ジュエフの叫び声に、私たち2人…否、1人と1匹は正気に戻り、ジュエフの方を見た。
「喧嘩なんか、やめて、くださいよぉ…」
ぼろぼろと涙を零し、ジュエフが泣きじゃくる。きっと、見ていられなかったのだろう。確かに、今の私と猫大使の争いは、醜いものだったかもしれない。
「大使が悪いんだからね」
猫大使を離し、私は服の裾を整えた。
「…」
猫大使は何も言い返してはこなかった。そして、窓へと歩いていき、窓を開けた。
「もう、しらん」
ひょい
まるで、家猫が外へ遊びに行くときのような身軽さで、猫大使は外へと出ていった。ジュエフは相変わらず泣いているが、部屋の中から争いの気配は消えた。冷静になってみれば、テーブルの上の醤油差しが倒れていたり、コピー用紙の束が崩れていたりと、部屋の中はくちゃくちゃになっていた。
「ほら、もう喧嘩してないから。泣かないで?」
醤油をキッチンペーパーに吸わせながら、私はジュエフに笑顔を見せた。が、その笑顔は心からの笑顔ではなかった。1ヶ月、同居していた猫と大喧嘩をしてしまったのだ、心よりの笑顔など出ようはずもない。といっても、あいつは腹が立つとか、あっちの方がおかしいとか、自分を擁護する心の方が大きかったことは、否めない。
私は、窓を閉めた。しかし、鍵をかけると彼が帰ってこれない気がして、鍵は閉めなかった。
「…」
「…」
2人きりの、黙りきった食事。もう3日目だ。あの喧嘩以来、猫大使は帰ってこない。ジュエフと私だけの、なんだか寂しい生活が続いている。今日のお昼は、猫大使も私も大好きなホットケーキにしたのだが、彼はやっぱり帰ってこない。
こう見えて、私はとても寂しがりだ。1日目はまだ我慢出来たが、2日目ともなると猫大使が帰ってこないことに寂しさと心配が沸き上がった。
バイト先でもミスをして、班長のきつい言葉を受けてしまった。そんなとき、猫大使をだっこしながら愚痴を言うと楽になるのだが、彼は今はいない。ジュエフをだっこして愚痴を言ってもいいのだが、彼はまだ私の複雑な話を理解できるほどのお年頃ではないし、だっこしていると恥ずかしがって逃げてしまう。猫大使はその辺り、空気を読めているので、だっこしても逃げることはなかった。
『と、次の瞬間、自動車は観客席に突っ込み、大炎上した!』
テレビで、レーシングカーが客席に突っ込む映像が流れた。
「猫大使さん、車とかに轢かれてないといいですね…」
ジュエフがぼそりと漏らし、ケーキシロップをかける。
『ボートは波に飲まれ、乗っていた船員が放り出される!』
「川とかにも落ちてないといいですけど…」
『あわや、大惨事!工作機械がいきなり起動し、作業員に襲いかかる!』
「工事現場とかに間違って入り込んだり…してないといいなあ…」
かちゃん
私はフォークを置き、顔を上げた。
「ジュエフ。猫大使は猫だけど、ちゃんと考えて行動できるんだから、そんなミスするはずがないでしょ」
「でも、羽道さん。こんなに長い間、帰ってこないんですよ?」
否定する私に、ジュエフが恨めしげな視線を向けた。
「何かあったんじゃないかって思うと、心配ですよ…羽道さんは心配じゃないんですか?」
「そりゃあ、心配だけどさ。でも、心配したってどうにもならないじゃない」
非難されたような気がして、私はむすっとして返事をした。
かちゃ
ホットケーキを半分ほど残し、ジュエフが立ち上がった。
「僕、ちょっと捜しに行ってきます…」
のそっと、彼は靴を履き、鍵を開ける。
「ちょ、ちょっと。ジュエフ?」
「夕飯までには帰ります」
がちゃ、ばたん
部屋を出ていくジュエフ。今まで、結構な期間、彼を見てきたが、こういう行動的な彼を見たのは初めてだ。四六時中、家にいて、テレビを見ていたり、お皿を洗っていたり、そんなジュエフしか見ていないのだ。外にもあまり出たがらず、肌の色は白いまま。そんな彼が外へ出ていったのだ。
「全く…」
残ったホットケーキを片づけながら、私はため息をついた。ジュエフは携帯電話も持っていないし、連絡も付けられないのに。
「そういえば…」
猫大使は携帯電話を持っていたはずだ。どこからともなく電話を出し、かけたり受けたりしているところを見たことがある。が、しかし、私は彼の携帯の番号やアドレスを知らない。誰か知っていそうな奴は…
「カネオさん!」
1人いた。冥界関係の、よくわからない仕事をしている太った男、カネオだ。猫大使に仕事を持ってきて、嫌な顔をされていたはずだ。しかも彼は、猫大使に電話をかけていたことがある。そうだ、彼の元へ行ってみよう。
「これはこれは晴美さん。どうかなさったんでっか?」
突然の訪問にも関わらず、カネオはニコニコしながら私のことを迎えてくれた。応接室はとてもきれいで、チリの1つも落ちていない。秘書の、細長くて無愛想なメガネ女性が、私の前にコーヒーを置いてくれた。一応、スーツを着て化粧はしてきている。ここに来るときには、私は猫大使の有能な秘書という設定だからだ。
「えーと、あの…猫大使がここ数日、行方不明となっておりまして、こちらで彼の居場所を把握していないかと…」
「へ?」
私の言葉に、カネオはハトが豆鉄砲を喰らったような顔をした。
「電話とか、繋がりませんのん?」
「いえ、あの、電話番号もメールアドレスも把握していなくて…」
カネオが、さらに驚いた顔をする。
「秘書はん秘書はん、そんなこっちゃあきまへんで?もしあんたんところに連絡が来て、大使様がどこかわかりません言うことになったら、えらいことですわ」
彼なりに心配して言ってくれているのだろうが、なぜだか腹が立つ。それはそうだ。私は実は、猫大使の秘書などではないのだから。彼の言う言葉は「秘書としての私」にとっては役に立つだろうが、「ただの同居人の私」にとってはお門違いの言葉でしかない。しかし、かんしゃくを起こすとまた面倒なことになるし、私は神妙にして聞いていた。
「ちょっと、こちらの方でも電話をかけてみますさかい、少々お待ちくだはれ。おーい!」
「はい」
カネオが呼ぶと、細長秘書は既に電話を用意して、電話をかけていた。かかってほしいけど、かかってほしくない、微妙な感情が揺れ動く。
「もしもし」
かかってしまった。細長秘書は、「はい、はい」などと言っていたが、電話を私の方へ差し出した。
「え?」
「猫大使様が、電話を代わるようにとのことです」
有無を言わさず、細長秘書は私に電話を握らせた。
「ぁー…も、もしもし?」
躊躇気味に、声を入れる。
『晴美か。全く、カネオの所に行くとは一体、どういう了見だ』
猫大使の、不機嫌そうな声が返ってきた。
「あ、うん…だ、だって、なかなか帰ってこなかったし」
『たかだか2日、帰らなかっただけだろうに、貴様というやつは。カネオだって、迷惑だろう』
「そ、そうだけど…でも…」
猫大使の一方的な物言いは、あまりにもひどいと思ってしまう。
『ジュエフがワシを捜しに来て、びっくりしたぞ。どうせ、お前の差し金だろう?』
「ちが、それはジュエフが勝手に…」
『嘘をつくな。お前というやつは、本当に仕方のないやつだ』
私は、何も言えなくなってしまった。こんな猫のために、何を私は寂しい思いなどして、焦っていたのだろうか。
『まあ、その分だと、だいぶ頭も冷えたか。あのときは、ワシもあまし、よろしくない発言だったと思っている』
おほん、と電話越しに声が聞こえてくる。
『済まなかったな。戻って、大丈夫か?』
「…うん」
『そうか。その、なんだ。ジュエフと一緒に帰るとする。じゃあな。また、後でな』
ブッ、ツーツーツー
電話は一方的に切られてしまった。猫大使も、謝るのは恥ずかしいから、あんなきついことをずらずらと言ったのだろうか。
…まあ、いい。猫大使は帰ってくるのだ。私は、礼を言って電話を秘書に返した。
「なんや、入り組んだ事情があるようですなあ。まあ、お力になれて、よかったですわ」
「本当に助かりました、ありがとうございました」
「いえいえ。ええんですわ。お話聞く限りだと、猫大使とこれ、やったんでしょう?」
カネオが両手の人差し指を、剣のようにたたき合わせる。喧嘩したんだろう、と言いたいのだろう。私は素直に頷いた。
「まあ、大使様も良い男やさかいな、女の子と喧嘩したという話はよう聞きますわ。あっはっは」
頭を掻き、笑うカネオ。秘書も、くすくすと笑っている。
「やっぱり、猫にもてるんですか?」
「いやあ、人の方ですわ。修羅場何度もありましてなあ」
「猫の姿でかわいいからですかねえ」
私の言葉に、カネオと秘書は笑いを止め、顔を見合わせた。
「ご存じないのですか?」
秘書に聞かれ、私は首を横に振る。カネオが立ち上がり、壁際にあった書類棚から、1枚のフォトフレームを取り出した。
「これとか、冥界のご実家で、メイドさんと写っておる写真ですがな。ほら、このメイドさんの綺麗なこと。羽道さんも、気をつけんと大変なことになりますでぇ?」
差し出されたフォトフレームを受け取り、何の気成しに見る私。
と。
私は、フォトフレームを落としそうになった。
「羽道さん、どうしました?」
秘書の声が遠くに聞こえる。
確かに、メイドさんは美人だった。それよりも、驚いたのは、一緒に写っていた「男」の方だった。今までの会話の流れからして、この「男」は、猫大使なのだろう。
「あ…あ」
今までだっこしたこともある。一緒にぐにゃぐにゃしながら寝たこともある。ご飯だって一緒に食べたし、風呂上がりの一糸纏わぬ姿を猫大使に見られたこともある。
こんなの、詐欺だ。
だって、この写真の男は、結構などころかかなりの「イケメン」だ。
「うそおおおおお!」
恥ずかしさのあまり、私は叫び声をあげた。
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