猫大使様
その5 「猫大使様お風呂に入りなさる」の巻


「あれー?」
 私、羽道晴美は、その日の夕方、自室のシャワーの様子を見ていた。6畳1間の賃貸アパート、隣人の笑い声すら聞こえそうな、壁の薄い安アパートだ。なぜシャワーの様子を見ていたかというと、数日前からおかしかったシャワーの様子が、さらにおかしくなったからだ。
「どうでしょうか…」
 私の肩越しにシャワーのことを見ている、痩せていて小さくて顔立ちの整った金髪美少年は、ジュエフと言う。彼は今日、シャワーを浴びようとして、冷水の被害にあったのだ。全裸の彼は、タオルで股間をぎゅっと押さえ、もじもじと恥ずかしそうにしている。
 一体何がどうなったのか。お湯が出なくなったのだ。季節は秋の最中、お湯が出るものだと信じていたジュエフは、赤色の蛇口を捻ったまま、ずーっとお湯が出るのを待っていたのだ。が、しかし。待てど暮らせど、お湯は出ない。
 泣きそうな顔で助けを求めてきたのは、シャワーに入って20分後だった。彼は、何事に対しても、私に遠慮する。だから、頼られて嬉しいという気持ちはある。だけど、いくら頼られても、直せないものは直せない。そんな都合良く何でも出来るわけじゃないのだ。
「ほら、言われたものを持ってきたぞ」
 そう言って風呂場に入ってきたのは、雪か何かかと見間違うような真っ白の猫だった。彼は、猫大使。冥界出身の、現世大使なのだそうだ。そう言えば、ジュエフも現世の人間ではなく、冥界人である。が、しかし。そんなつまらないこと、気にはしない。
 本当なら、猫大使もジュエフと一緒にシャワーをするはずだったのだが、お湯が出なかったせいで、冷水をしこたま浴びてしまっていた。さっきまで毛繕いをして、今ではふわふわになったが、びしょびしょのべちゃべちゃだった彼があちこちうろつきまわったせいで、部屋のあちこちに水が飛んでいる。それについては、猫大使を持ち上げて床にびったんとたたきつけて、お仕置きをしておいたので、もう何か言うつもりはない。
「ありがと」
 猫大使がくわえてきたレンチを手に持って、私は適当に蛇口をがちゃがちゃやった。でも、どこが壊れたなんて理由もわからないのに、こんなことしても意味がないわけで。何の気なしに、シャワーヘッドを外し、中を覗き込む。
「げ」
 見たくないものを見てしまった。
「どうした?」
 猫大使が首をにゅーんと伸ばしてこっちを見ている。私は何も言わず、ヘッドの中を見せた。
「…カビか?」
 猫大使が顔をしかめる。そう、普段メンテナンスをしていない場所は、カビの温床になるのだ。でも、そんな毎日風呂掃除とシャワーヘッド掃除が出来るわけでもないし。どうすればいいんだ、って叫びたくなる。ともあれ、こんな気持ち悪い物、なんとかしなくては。私はシャワーヘッドをシンクへ持っていき、タライの中にぶちこんだ。このままお湯を出して、漂白剤にぶち込めば、きれいになるだろう。
 じゃああああ
「あれ?」
 こっちからもお湯が出ない。なんだって言うんだろう、一体。シャワーもダメ、キッチンもダメ。お湯がダメ。ということは…
「給湯器!」
 ベランダにあるガス式給湯器が、きっと動いていないのだ。だからお湯が出ないに違いない。我ながら名推理だ。
「給湯器が壊れたんですか?」
「きっとそうよ。だから、給湯器を新しいのに交換すれば、直る!」
 半ばぽかんとしているジュエフに、私が自信たっぷりに言った。
「猫大使、インターネット!」
「もうやっておる」
 インターネットで給湯器の値段を調べなさい、という意図のようなことを私が言う前に、猫大使は既にそのにゃんこハンドでキーボードを叩いていた。
「ガス式給湯器。10万円」
「高い!次!」
「ガス給湯器。14万8千円」
「ダメ!次!」
「壁掛け給湯器。8万4千円」
「まだ高い!もう一声!」
「これ以上安いのなどおらぬわ!」
 しゃーっ、とでも言いたげな顔で、猫大使が怒った。なんてことだ、給湯器がこんなに高いものだったとは。嫌になってしまう。
「あ、あの。シャワーは…」
 不安げな顔で、ジュエフが聞いてきた。
「…今日は我慢して」
「あ…はい…」
 私の言葉に、残念そうに、ジュエフが俯いた。
「参ったなー。高いなー。猫大使、新しいの買ってよ」
 仕方なく、水に漂白剤をどぼどぼと入れ、私が言った。
「こちらの通貨など持ち合わせておらんし、冥界の自宅に帰らねばろくに金もないわ」
「ワープポイントで3秒なんでしょ?ちゃっ、と行って帰ってこればさー」
「ワシは大使だ、ここを出て帰るのにも手続きが必要なのだ。わかっておらぬな、お主は」
 むう、と私が唸る。猫大使は、尻尾をぺったんぺったんしながら、テレビをつけて見ている。
「あ、あの」
「ん?」
 ジュエフに声をかけられ、そちらの方を向く。
「その、いつまでもこっちにいられると、着替えられなくて…カーテンを…」
 要するに、キッチンから部屋に戻って、仕切りのカーテンを閉めてくれと言っているのだろう。なんというか、いじらしい。これは意地悪がしたくなってしまう。
「カーテンがどうかした?」
「そ、その、カーテンを閉めてもらえると…」
「ああ、うん」
 しゃっ
 カーテンを閉める。もちろん私は、キッチン側にいるままだ。
「そ、そうじゃなくて、着替えるので…」
「うん、着替えればいいじゃん」
「だ、だから、向こうに行っていて欲しいと言うか…」
 だんだんと、ジュエフの目に涙が浮かぶ。いけない、と私は思った。彼は冥界の孤児院で育ち、いじめられていたという話だった。孤児院の人が迎えに来るまで、優しくしなければいけないと思っていたのに、これではいけない。
「ご、ごめんね。すぐ向こう行くからうわぁ!」
 と、私は足下に転がっていたペットボトルに足を取られ、手をばたつかせた。その手が、ジュエフのタオルをはぎ取り、それがあれして、見えてしまった。その間、約0.5秒である。
「きゃあ!」
 まるで女の子のような悲鳴を上げるジュエフ。私は、久々に見た男性のそれに、恥ずかしいだとか恥ずかしくないだとかいう前に、ソーセージを連想してしまった。最近、ソーセージピザを食べていない。ソーセージピザが食べたい…。
「ひらめいた!」
 気が付くと、泣きべそをかくジュエフの前で、私は叫んでいた。


 ピンポーン
「こんばんわ、ピッツァマンでーす」
「はーい!」
 数十分後、ピザがやってきた。鍵を開け、ドアを開ける私の前に、茶髪でピアスをした配達員の男が現れた。
「待ってたよー。さあさあ、こっちこっち」
 私はピザを受け取り、その男を家の中に引き込んだ。この男のことを、私は良く知っている。彼は野池小太郎。以前、同級生だった男だ。それなりに仲が良く、今でもたまに話す仲だ。
「こっちって?」
 何の疑いもなく、小太郎が家に上がり込んだ。カーテンを開け、部屋に入れる。もちろん、部屋は掃除済み、誰が上がっても問題ない。ジュエフは、ベッドの縁に座ってぼーっとしていて、猫大使はその膝の上で香箱を作っている。
「ど、どうも…」
「にゃぁぁーん」
 ジュエフはおどおどしながら挨拶をして、猫大使は猫の鳴き声を出した。猫大使は、喋れることを隠そうとしているのだろうか。猫を被りやがって。
「実はだね、君を呼んだのは他でもない。給湯器が壊れたので、直してほしいのだよ」
 用意してあった工具を小太郎に渡すと、小太郎はあからさまに嫌そうな顔をした。
「いや、イヤだよ。俺がやる意味がわからなくね?」
 確かにその通りである。彼は修理工でもなんでもない、ただのピザ配達人だ。それがいきなり、客先で給湯器の修理をしなければいけないというのは、理不尽ではある。が、しかし、そんな理屈など私の知ったことではなくて、私は給湯器さえ直ればいいのだ。
「こういうときしか役に立たないのだから、やりたまえよ」
「イヤだよ。修理業者呼べばいいんじゃねーの?」
「そんなお金ないもん。ねー、頼むよー。明日もピザ取って、店の売り上げに貢献してあげるからさー」
「知らねえよ。ほら、ピザ代金くれよ」
 手を差し出す小太郎に、私は財布を取りだした。
「じゃあこうしましょう。うちの給湯器を直してくれたら、ピザの代金を払ってあげます」
 ちらちらとお札を見せて、私は小太郎を挑発した。なけなしの五千円札だ、これを使い切ったら来週の給料日までお金がない。そんな状況で、給湯器を直せないか考えた、苦肉の策なのだ。
「わかったわかった。じゃあ見るだけ見てみるから…」
 とうとう、小太郎が折れた。この男は、面倒くさいと感じると、迂回路を探すタイプの男だ。こうして言い合っている間に、面倒だと思ったのだろう。レンチを手に持ち、ベランダに出る小太郎。と、彼の顔つきが変わった。
「なんかこれ、歪んでね?」
「え?」
 言われてみてみれば、確かに外装の板が歪んでいる感じがする。ここに引っ越してきたときにはこんなことになってはいなかった。これが原因だろうか。
「じゃあ、こうして…」
 給湯器の前で、レンチを振りかぶる小太郎。まさか、と思う間も無く…。
「でぇい!」
 がぁん!
 この男、レンチを振り下ろしやがった。
「壊れたらどうすんのよぉぉぉ!」
「もう壊れてんだろ。ダメ元で湯出してみ?」
 小太郎に言われ、ジュエフが猫大使を退かし、キッチンに走る。湯の蛇口を捻り、しばらく待つと、シンクから湯気が立ち始めた。
「出ました!」
 ジュエフが嬉しそうに言った。やれやれ、と言った様子で部屋の中に戻ってくる小太郎。私は無言で五千円札を差し出した。
「はい、お釣り…」
 ウェストポーチを漁り、硬貨と札を無造作に渡す小太郎。彼は、ありがとうございましたとも言わず、部屋を出ていった。
「これでシャワーが出来るねえ」
 とりあえず一安心だ。銭湯にでも行くかと考えていたが、そんなこともしないで済みそうだ。
「じゃあ、シャワーはいっちゃいます」
「うん。ご飯はその後にしようね」
 ジュエフがカーテンを閉めた。風呂場のドアが開く音がする。シャワーヘッドのカビはちゃんと落ちたし、問題無しだ。
「思うのだがな、大家に相談すればよかったのではないか?」
 猫大使がベッドの上で丸まり言った。
「あ」
 その通りだ。このアパートの管理人に相談するという手もあった。もし部屋に何か不具合が出たら呼んでほしいと、入ったときに言われたのを思い出した。次、トラブルが起きたら、呼ぼう。とりあえず今日は…
「きゃあ!」
 風呂場からジュエフの悲鳴が聞こえた。ゴキブリでも出たのだろうか。様子を見に行くと、ぶるぶる震えるジュエフがいた。
「お、お湯が、また止まって…」
 どうやらちゃんと直ってはいなかった様子だ。それはそうだ、レンチで殴っただけで機械が直るなら、世の家庭の工具箱には、レンチしかないはずだ。今度は、管理人に電話をすればいい。携帯電話を取った私は、登録してある管理人の番号にかける。
『おかけになった電話は、電波の届かないところにいるか、電源が入っていないかで…』
 おかしい、もう一度。
『おかけになった電話は…』
「ええー!?」
 管理人は出ない。管理人は、このアパートから2駅程度の所に住んでいて、訪問するには遠い。小太郎は帰ってしまった。
「あ、あの。シャワーは…」
 不安げな顔で、ジュエフが聞いてきた。
「…今度こそ本当に、今日は我慢して」
「あ…はい…」
 私の言葉に、残念そうに、ジュエフが俯いた。
「仕方ない、ご飯にしよう」
 ジュエフがカーテン越しに服を着る音を聞きながら、ピザを食べる私。私は、明日もピザを注文して、今度こそ修理させようと思うのだった。


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