猫大使様
その4 「猫大使様夜中に相談なさる」の巻


 ぼーっとした顔で、金髪の少年がテレビを見ている。その隣で、私は絵を描いている。テーブルの下では、雪のように真っ白い猫が、ぐてーっと伸びをしていた。6畳の狭い部屋には、人間が2人と、猫が1匹いて、他には誰もいない。
 私の名前は羽道晴美。そしてこの猫は、人間界へと派遣された大使、猫大使。目の前で、テレビを見ている少年は、ジュエフという冥界で迷子になっていた少年だ。まったく数奇としか言いようのない運命で、この3人は私のアパートに、住むことになってしまった。今は、残暑も落ち着いた秋だし、狭くてもそれほど暑くはない。
『ったく、あかんわー!助けて欲しいわー!』
『何言うてんねや!自分でなんとかしい!』
 テレビでは、大阪出身の芸人による、コントが行われていた。
「あはははは」
 絵を描きながら、私は笑う。猫大使も、げらげら笑うわけではないが、時折笑い声が聞こえる。しかし、ジュエフは笑わず、ぼーっとテレビを見ているだけだ。
 彼は、冥界の「悪い方の割れ目」というところに迷い込んで、「悪魔に襲われ」て、「斬られて、痛かった」思いをしたらしい。そんなの、私には正直想像がつかない。自分の世界のことじゃないし。でも、ジュエフがかわいそうな境遇だったのはよくわかる。
 かわいそう、と思えるのは、自分の生活の基盤が安定していて、相手より上の立場にいる人間である。だから、かわいそうは上から目線の言葉だ。確かに、上から目線かも知れないが、かわいそうだと思ってしまうんだから仕方ないだろうと開き直る。
「ジュエフ、お笑いはダメかな。アニメでも見る?えーと、なんかやってたかな」
 テレビのチャンネルを変えようとする私の方を、ジュエフが見る。
「気を使わないでください…」
 流暢な日本語で、ジュエフが言う。私は少しむっとした。この子はここに来てから一週間、ずっとこうだ。遠慮しすぎる。昨日だって、夕飯にピザを取ったら「僕はいりません。みなさんの取り分が少なくなるし、いただける身分じゃないし…」と来たものだ。ぐっと我慢して、食べてもらわないと残って困ると言ったら、おずおずと口をつけた。なんだか気を使ってしまう。
「そっか…」
 表面上は何でもないように装い、絵を描き続ける。私の本業は、イラストレーターだ…たぶん、恐らく。イラストで食べていくことなど不可能であり、私は別のアルバイトをして、生計を立てている。アルバイトをしていないときには、こうして絵の練習をしていることが多い。
 私の描く男は、みんな線が細いと言われるので、今は筋肉のついた男の絵を練習している。でも、なかなか上手くはいかない。筋肉の構造は、知識では理解しているつもりだが、絵にするとなると難しいのだ。
「あー、だめー、上手くいかない!」
 とうとう私はシャーペンを放り出し、ごろんと転がった。頭に、ベッドの足がぶつかる。
「気合いを見せんか。絵画の道は芸術へと真っ直ぐに繋がる至高の道ぞ。そんなことでどうする?」
「私みたいな3流イラストレーターの描く絵に芸術なんか求めないでよ」
「3流も1流もあるか。努力の末に結果が出るのだ、怠けている暇などないだろう」
「あーはいはい、そうでござるそうでござる」
 説教をする猫大使に背を向け、私はふてくされた。
「せめて1時間は頑張ると言っておったのは嘘だったのか。まだ30分しか経っておらんぞ。えーい、起きんか」
 ぐらぐらと、猫大使の猫手が私の背中を揺さぶる。私は手を広げ、ごろんと寝返りを打った。
 べちゃっ!
「ぐえっ!」
 私の背中が、猫大使を潰した。
「ごめーんねー」
 わざと、ゆっくりと起きあがる私。猫大使はグロッキーになってしまったようで、起きあがろうともしない。
「この…糞娘…いつか…必ず…」
 ぶちぶちと何か言っているが、私はそれを聞こえないフリでスルーした。
「…っと、もうこんな時間。ご飯にしようか」
 時計を見上げ、私は言った。もう7時を回っている。昼、ご飯を炊いておいたから、おかずだけ作ればいい。私は立ち上がって、冷蔵庫の中身を確認した。
「ニンジン、タマネギ…えーと、後は鶏肉かあ」
 このラインナップなら、カレーがいいかも知れない。確か、カレールーはシンク下の収納にあるはずだ。シンクの下を開けると、運の良いことにジャガイモが出てきた。芽は出てないし、使えそうだ。
 ジュエフは箸を使えないため、今まで食事はスプーンやフォークを出していた。猫大使ですら箸を使っているのを見て、なんとなく気後れを感じているようなところが見て取れた。カレーなら箸を出さないでも良いから、彼も気兼ねなく食べられるはずだ。
「おい、晴美。手伝うことはあるか?」
 いつの間にか、猫大使が横に来ている。
「ニンジンの皮を剥いてもらいたいけど、その体じゃピーラーは無理かなあ。ジュエフ、手伝ってくれる?」
 いきなり名前を呼ばれたジュエフは、はっとした顔でこっちを見た。そして立ち上がり、私の横に来た。
「これ、使い方わかる?」
 ニンジンとピーラーを渡す。ジュエフは1つ頷いて、ニンジンの皮をむき始めた。
「そうそう。上手いね」
 これで安心して私は別の仕事が出来る。私はフライパンを出し、油を少し注いだ。まだ火は付けない。フライパンに入れるべきタマネギの櫛切りを、先に作る。皮を剥き、水洗いし、包丁を入れる。最初は何ともなかったが、すぐにあのタマネギ特有の、つんとくる刺激がやってきた。
「う、う、ううむ」
 さすがの猫大使も、タマネギの臭いはダメなようで、いざいざと部屋に逃げていく。
「終わりました。他にはありますか?」
 剥き終わったニンジンを置き、ジュエフが聞いた。
「じゃあ、ジャガイモをお願い」
 ジャガイモを渡し、私は櫛切りを続ける。ジュエフはピーラーで、ジャガイモの皮をきれいに剥き始めた。
「上手いね。家で、お母さんとかの手伝いをしていたの?」
 切り終わったタマネギをフライパンに入れ、私は聞いた。
「…」
 ジュエフは返事をしない。そういえば、彼を連れてきた謎の関西人もどきのカネオは、彼のことを孤児だと言っていた。
『やばっ!』
 母親の話などしてはいけなかったのだ。
「そ、そういえば、昨日の雨すごかったね。ベランダに洗濯物を干しておかなくてよかったー、あははは」
 話を逸らそうと試みるが、どうも失敗したらしい。足下で、猫大使が鋭い視線で私のことを見ている。どうやらヘマをしてしまったようだ。私は、だんだんと重くなってくる気分を抱えながら、タマネギを切った。涙が出たのは、タマネギのせいだけではなかった。


「んー…」
 夜中になり、私は目を覚ました。基本的に夜は、別々に寝ている。私は床に布団を敷いて寝ていて、猫大使はバスケットに丸めたバスタオルの上、そしてジュエフがベッドで寝ている。狭い部屋だから、布団を敷くたび、テーブルを退かさないといけない。
 なんだか、寝付きが悪かった私だったが、やはり夜中に目が覚めてしまった。こういうことが、たびたびある。その理由は、体調不良だったり、ストレスだったり、様々だ。今日は、ジュエフのことが気になってしまったのだ。
「…」
 起きあがって、ジュエフの背中を見る私。彼はとても痩せていて、少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうな体つきをしている。どことなく漂う哀愁は、守ってあげたい気分になる。
 彼を見て思うのは、冥界人も現世人も基本的には変わらないということだ。体のつくりは同じだし、声だって大体同じ。冥界人の血の色は見たことはないけれど、恐らくこちらの人間と同じだろう。
「う、う…」
 ジュエフが呻いて、寝返りを打った。ひどい寝汗だ。何か、嫌な夢でも見ているのだろうか。しかめっ面をした彼は、小さく震え、毛布をぎゅっと握っている。
 私はその額に手を乗せ、軽く頭を撫でた。ジュエフは、しばらく呻いていたが、そのうち安心した表情に戻り、すうすうと寝息を立てた。
「おほん…」
 後ろから声がした。猫大使だ。なんとなく、恥ずかしいところを見られた気がして、私は赤面した。
「晴美、起きていたのか」
 小さな声で、猫大使が言う。
「うん。猫大使、起きちゃった?」
「ん、まあな」
 ちらりとジュエフの方を見て、猫大使が頷く。
「少し、話したいことがある」
「何?」
「ここでは、こやつが起きたとき、言い訳がつかん」
 ジュエフを、猫手で指す猫大使。彼に聞かれてはいけない話だろうか。
「屋上、行こう」
 私は部屋の鍵を開け、サンダルを履いて外に出て、階段を昇る。その後を、猫大使がついてくる。屋上には、古びた物干しがあるだけで、人の影はない。すっぴんを他人に見られたくないが、この時間ならその心配はいらないだろう。
「ジュエフのことなんだが…」
 こほん、と猫大使が咳払いをした。
「カネオが調べてきた。あいつは、施設の出身で、身寄りがないそうだ」
「え、マジ?」
 唐突に出てきた言葉に、私は耳を疑う。
「マジもマジ、大マジよ」
 猫大使が、静かに頷く。マジだなんて言葉、猫大使には似合わない。
「元より、内向的な性格だったそうだ。それがある日、ふらーっと出ていって、いなくなって、探していたと。その施設では今回、発見の報告を受けて、安心しているそうだ」
「そうだよねえ。心配するよねえ」
 猫大使の言葉に、私はうんうんと頷いた。
「でな…1ヶ月ほどしてから、こちらへ迎えに来たいのだそうだ」
 言いにくそうに、猫大使が言う。
「へ?1ヶ月?」
「そうだ。1ヶ月だ」
「なんでそんなかかるのよ。ふつー、すぐ迎えに来ない?」
 そんなに時間がかかる理由がわからない。まさか…。
「まさか、冥界とこっちって、往復するのに時間かかるの…?」
 そうだ、こちらとは法則の違う別の世界だ。やはり、移動に時間が…。
「そうだな。転送ゲートで、3秒と言ったところだ」
「早っ!」
 …かかるはずもなかった。
「どうもな、その孤児院で、いじめが横行していたらしくてな。ジュエフは、そのいじめの被害者だったのだ。今戻せば、同じ結果になりかねんと、対策を講じているらしい」
 俯き気味に、猫大使が言った。どうにもこうにも、重い理由だ。彼がどことなくびくびくしているのは、いじめられると思っているからかも知れない。
「…いじめってさー」
 ぼそっと私が言い、猫大使が顔を上げる。
「いじめってさー、要するにそいつのこと気に入らないから、やるんだよねー。いじりといじめの境界がどうとかいうけど、本当のいじめなら、いじりだと思って面白い返事しようとしても、封殺されちゃうの。お前には聞いてないとか、喋るなとかね」
「ふむ…なるほどな」
 幸い、私はいじめられたことはないが、同じクラスでいじめられている子を見ていたときには、とても辛かった。なんとなくそれに荷担出来なくて、私はクラスで「浮いた子」になった。いじめの矛先が私に向くことはなかったが、なんとなく居づらい思いをした。
「まあ、そっちの解決はそっちの人に任せるとして、私たちは後1ヶ月、ジュエフと仲良くしてればいいわけね」
 空を流れる雲を見て、私が言う。さっきまで出ていなかった月が、今は顔を出し、輝いている。美しい半月だ。
「うむ。ジュエフはまだ、向こうでいじめを受けると思っているかもしらぬ。くれぐれも、言うなよ」
「わかってるって」
 私は猫大使と連れだって、部屋に戻った。鍵をかちゃんとかけ、キッチンを抜け、部屋に入る。
 するとそこには、ベッドの上に座り、窓の外を見ているジュエフの姿があった。
「眠れないの?」
 後ろから声をかけると、ジュエフはびくっとして、振り向いた。
「いえ…月が、きれいだったので、見ていたんです」
 相変わらず、ぼんやりとした顔で、ジュエフが返事をする。私は下に敷いてある布団にあぐらをかいた。
「月ってねえ」
 私の言葉に、ジュエフがこっちを向いた。
「月ってねえ。夜空に開いた穴なんだよ」
 突拍子のないことを言いだした私に、ジュエフがきょとんとした顔をする。
「本当の宇宙は、星とか月みたいな黄色をしてるんだけど、それを黒いものが覆ってるの。そこに穴が開いてるから、あんな色が見えるんだよ」
「…僕だって、宇宙くらい知っています。からかわないでください」
「からかってないよー。だって私、宇宙人だもの」
 困った顔をするジュエフに、私はけろっとした顔で言った。
「地球にはつい1年ほど前に来たんだけどね、それからずっとこっちの世界で暮らしてるんだ。お父さんとお母さんは星にいて、私にたまに仕送りくれるんだよ」
 どう反応して良いのか、ジュエフはわからないようで、苦笑いをした。
「私もねえ、この星に来たばっかりのときには、一人で寂しかったんだよ。でもね、今は友達もいるんだ、だから少しは寂しくない。でも、まだ寂しいよ。だからさー」
 そっと、ジュエフの髪を触る。
「だからさ、ジュエフも私の友達になってくれないかな」
 もちろん、私は宇宙人などではない。これは、8割方ウソだ。彼からこっちへ歩み寄るのは、難しいだろうから、少し橋渡しをしてあげたいと思ったのだ。
 これだけ年が離れているのに、友達も何もないかも知れない。だが、彼がもし友達だと思ってくれて、仲良くなってくれたら、それで良い。
 私は、ジュエフの頭を、何度も撫でた。髪は猫っ毛で、とても柔らかい。肌は白く、目はブラウンだ。本当に、美しい顔立ちだと思う。ジュエフは、困惑した顔をしたまま、私のなすがままになっていた。
「ほら、思ったことを口に出してみ」
 猫バスケットで丸まった猫大使が、ジュエフに言った。
「嫌ならそれでも良し。晴美は、拒否されたからと言って、めそめそ泣くような線の細い女ではない。ジュエフ、お前も男…否、人ならば、自分の意志ぐらい自分で言ってみせろ」
 そうか、嫌がる場合もあるのかと、私が手を引っ込める。ジュエフは、しばらくぼーっとしていたが…。
「うん、お友達。嬉しいです」
 と言って、微笑んだ。天使という比喩が、ぴったりと似合う。私は、あまりのかわいさに、声を失って彼のことをぎゅっと抱いた。
「うっ!」
 いきなりのことに、ジュエフが声を失った。
「よーしよしよし、ジュエフはかわいいねえ。今日は一緒に寝ようか」
 ごろん、と私はベッドに入り、ジュエフに抱きついた。ジュエフは、困ったような、それでいて嬉しいような顔で、身を固くしていた。
「災難よな、抱き枕などとは。晴美、あまり力を入れるんじゃ…」
 ぐっ!
「うあ!」
 ジュエフと一緒に、猫大使もだっこだ。
「何をする!何も抱かれんでも、一人で寝られるわ!」
「いいのいいの。今日はみんなで仲良く寝ようよ」
「えーい、群れて寝るのは性に合わんわ!」
「わがまま言わないの!ジュエフはおとなしくしてるよ!」
 ジュエフを足の間に挟み、猫大使を首に巻き、私は布団を被った。相変わらず、ジュエフは体が固い。それに対して、猫大使は柔らかい。
「こんなの、初めてかも知れません。ちょっと、嬉しい」
 ぎゅっと、私に抱きついて、ジュエフが言った。
「母様の匂いがする…」
 ぼそっと呟いたその言葉に、私はなんだか戸惑ってしまった。私は母になれるような器ではないと思っているからだ。
「ジュエフ…?」
 そっと、名を呼ぶ私。が、ジュエフはもう寝てしまったようで、寝息を立てていた。
「寝たようだな」
 いつの間にか、襟巻き状態から脱した猫大使は、ジュエフと私の間に挟まっていた。
「母様、ねえ…」
「本当なら母に甘える年頃よ。後1年もすれば、反抗期が始まるがな」
 ジュエフの頬を、試しにつついてみる。とても柔らかい。こうして甘えられるのは、悪い気分ではない。私たちは、友達になれたということだろうか。
 そういえば、ふと疑問に思ったことがある。
「猫大使。私と猫大使って、どういう関係なのかな」
 そう、猫大使との関係だ。
「関係?同居人だろう」
 顔をくしくしと擦り、猫大使が言う。
「そうじゃなくて、仲間とか、友達とか」
「難しい質問だな。ワシはお前のことを、同居人であり、中途半端に仲の良い行きずりだとしか思っておらんからな」
 猫大使が首を捻った。
「そうだよね。人と人の関係が口で上手く現せないように、猫と人の関係も、口で言い表せないよねえ」
 すり寄ってくるジュエフを撫でながら、私が言った。
「…お前、猫だ猫だと言うが、ワシにだって人の姿はあるのだぞ」
 猫大使はすっくと立ち上がり、床に降りる。
「冗談でしょー?猫大使の人形態なんて想像出来ないよー」
 私は猫大使のことをけらけら笑った。猫大使は不機嫌そうに、猫バスケットに収まり、寝てしまった。言い過ぎたか。
 しかし、人と一緒に寝るのは久しぶりだ。昔はよくあった気がするが。私はジュエフをだっこして、眠りについた。明日が良い日でありますように…。


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