猫大使様
その20 「猫大使様街へと出発なさる」の巻


 白い壁が、少年の周りを囲んでいた。少年の肌は、その壁に負けぬほど白かった。血の気の引いた、まるで蝋人形のような色だった。
 ベッドに寝かされた少年は、仰向けに天井を向いていた。目は閉じ、すうすうと寝息を立てている。金色の柔らかな短い髪が、枕に埋もれている。華奢で頼りないその姿は、まるで今にでも死を迎えるかのように弱々しかった。
 その隣には、女性が座っていた。メガネをかけたその女性はとても痩せていて、表情が固く、冷たい印象を受ける。女性はメモ帳を開きボールペンを握っていたが、特に何かを書くわけでもなく、ボールペンを延々と回していた。
 部屋にはベッドの他に、荷物を入れるための棚や、椅子などが置いてある。少年の枕元にある小さなスイッチには「ナースコール」という文字が書かれており、それを見ればここが病院の病室であることがわかる。
 かちゃ
「氷室。どうだ、様子は」
 1人の男が、部屋の戸を開けて入ってくる。彼も痩せており、メガネをかけている。黒い髪は短く揃えられており、ともすれば軍人のようにも見える。着ているのが黒のコートだというのも、そう感じさせる1つの要因だろう。
「落ち着いています。先ほどまでは泣いていましたが」
 ぱたん
 メモ帳を閉じ、氷室と呼ばれた女性が、顔を上げる。
「泣いていた?こいつはずっと寝ているじゃないか」
 部屋の隅に置いてあった椅子を引っ張ってきた男は、氷室の横に座る。
「時折、身を震わせ、目の隙間から涙が溢れていました」
「そうか。よほど嫌な夢でも見ているんだろう」
 男が少年の顔に目を落とす。
「鎮静剤が抜けたら、また暴れだすんじゃないだろうな。俺ではもう抑えられんぞ。こんなときに猫大使がいてくだされば…」
「マーロン」
 腕を組み、やや憔悴した様子の男に、氷室が声をかける。
「大使は今、冥界です。いもしない人がいれば、などということを考えるより、自分ができる対策を考える方が建設的かと思いますが」
 そう言う氷室も、無表情を装ってはいるが、疲れの色が見える。ふう、と吐いたため息が、軽く少年の頬にかかった。
「こいつー!弱音の一つぐらい吐いてもよいだろうが!お前は…」
「静かに」
 いきなり激昂した男…マーロンの前に、氷室が手をぴっと差し出す。
「ん…」
 金髪の少年が、小さく寝返りを打つ。その仕草に、マーロンがびくっとした。
「くそっ、心臓に悪い」
 頭を掻きながら、マーロンが椅子に深く座り直した。
「彼を連れ戻すときも、大変だったんでしょう?」
「ああ。単純な力比べで負けたのは久しぶりだ。俺がその気になれば、熊だって抑え込めるぞ。それをこいつは…」
 がたっ
「片手で投げ飛ばしたんだ」
 頭を抱え、マーロンが言う。
「寄生性生命腫瘍っていうのは、そんな力が出せるようになる病気なのか?俺は自信をなくしたぞ…子供に投げ飛ばされたなんて、子供に…」
 がっくりと肩を落としたマーロンの声がだんだん小さくなる。
「正確にはジュエフ本人の力ではないのです。ジュエフの中に棲む、もう1人の彼のせいでしょう」
「…診断では、悪魔らしき魂がこいつの中にいるんだったか。そんなパターン、あるのか?どちらにしろ、魂のせいで体の筋肉量が増えるわけじゃないだろう」
「ええ。ただ、脳のリミットを外し、肉体の限界を超えた力を使っている、ということは考えられます。そんな状態をいつまでも続けては、ジュエフ本人の命も危ないでしょう」
 ふん、と軽く鼻を鳴らし、マーロンは天井をぼうっと見つめていた。氷室はといえば、ポケットから携帯電話を出し、新着メールの確認をしている。
「病院で携帯なぞ使うんじゃない。阿呆か」
 そんな氷室に、マーロンが苛つきをぶつけた。
「携帯電話の電波が医療機器の誤作動を引き起こすようなことは、今はもうないと聞きましたが。無線機のような強力な電波発生源ならわかりませんが」
「マナーの話をしてるんだ。ああ言えばこう言うやつだ。お前も"ウミチハルミ"と同じ類か」
 涼しい顔をしている氷室に、マーロンが苛立ちを隠そうともせず言い放つ。
「うみち、さぁん…」
 ベッドに寝ている金髪の少年が、小さく声を上げる。氷室とマーロンは黙り込み、ジュエフの動向を見守った。マーロンが立ち上がり、少年に近づく。
「おい、こいつは起きているのか?」
 ジュエフにずずいと顔を近づけ、マーロンが氷室に聞く。その顔には警戒の色が浮かんでいた。
「いいえ。眠っています。少なくとも、後2時間は眠ったままのはずです」
「そう、か。そうだよな。あれだけ魂魄麻酔をぶちこんだんだ。これで起き上がってきたら、それこそ肉体も魂も人ではない化物だ」
 氷室の返事に、マーロンも安心したらしい。椅子に座り直す。
「全く。大使といいこいつといい。ウミチハルミの何がいいんだか」
 やや皮肉の入った口調で、マーロンがつぶやく。
「彼女は好感が持てますよ。ほどよく内向的でほどよくわがままで、ほどよく恥ずかしがり屋。活発な女性とは言えませんが、平均的な日本の現代女性ではないでしょうか」
「はん。まるで自分が、平均的な日本の現代女性じゃないかのような言い方だな」
「日本人ではありませんから」
 あくまで、氷室は事務的な口調を貫いていた。だが、その口元には軽い笑みが見える。このやりとりが彼女にとって、楽しいものであるのだろう。それを知ってか知らずか、マーロンは大げさに頭を振った。
「…で、これから先、どうするんだ。いつまでもジュエフをこんな状態にしておけないだろうが。悪魔とやらを消すのか?そのための霊石を、大使が手に入れたと聞いたが」
 エアコンが暖かい風を出している。その風を顔で受けながら、マーロンが聞いた。
「まだ調べなければならないことはたくさんあります。身の振り方を決めるのは、しっかりと調査し終わった後でもよいでしょう」
「で、それはいつ終わるんだ。明日か?明後日か?それまでアホ面しながら暴れる子供の子守をしろとでもいうつもりか」
 いらいらがまたマーロンの顔に浮かび上がってくる。しかし。
「ええ、言うつもりです。何か?」
 氷室はそんなマーロンのことを見ることすらせず、さらっと返事をしてのけた。これにはマーロンも毒気を抜かれたらしい。わざとらしく、大きなため息をつく。
「…負け、俺の負けだ。今なら、ネズミと口喧嘩をしても負けそうな気がする」
 がっくりと肩を落としたマーロンが、口から魂すら漏れそうなため息を吐き出した。
「腐らないでください。そうそう、大使の写真が何枚かあるのですが、メールで送りましょうか?」
 そう言って、氷室が携帯電話を取り出す。大使、という言葉に反応したマーロンが、即座に顔をあげた。
「本当か!くれ、いますぐだ!ああ、大使!大使ぃ!」
 大きな声で叫びながら、マーロンが目を輝かせる。まるで、超上等なステーキ肉を目の前にぶらつかされた犬か何かのような顔だ。
「…病院での携帯使用はマナー違反だと言っていたような気がしますが?」
「そんなもの、緊急時には不可抗力だろう!さあ、送ってくれ!早くしろ、早く!」
 そのマーロンの変わり様に、やや呆れ気味な態度をとる氷室。そんな氷室のことを無視して、マーロンは暴走を続けるのだった。


「うーん……」
 馬鹿でかい鏡の前で、ヘアブラシを手に持たまま、私……羽道晴美は唸っていた。髪がいうことを聞かない。肩ぐらいで揃えている黒髪は、私相手にケンカを売っているのだ。
「こう、かな?」
 さっ
 ブラシを入れる。が、どうもダメな気がしてやめてしまう。そもそも、生まれて20と数年、ヘアスタイルをきっちりと考えて整えるようなことはしてこなかったのだ。一般的なおしゃれな女子の体験することを、私はほとんど体験せずに生きてきている。陽の光よりは部屋の蛍光灯が似合うし、友達もアニメやマンガが好きな輩ばかり。もちろん、私もその1人だ。
 そんな私がなぜ、慣れないおしゃれに必死になるか。それには理由があるのだ。
「おい、まだか?」
 コンコン
 ドアのノック音と男の声が混ざって、部屋の中に転がり込んでくる。
「ちょっと、待ってよ、後5分!」
 私が鏡で後ろを確認しながら叫んだ。
「お前、5分前にもそう言っていたではないか…」
「言ってないし!ほら、今のうちにトイレとか行ってきなよ!」
「もう2度は行ったわ。全く、こんなことでは日が暮れるぞ。こんなに支度に時間をかけたこと、今までなかっただろう」
 外の男は、待ち疲れているようで、声の端々に疲れの色が見えた。
「わかったから、今行くから!」
 私はブラシを置き、立ち上がった。気取った髪型にしようなどと考えたのがそもそもの間違いなのだ。いつもどおりでいい、それでいい。
 ガチャ
「待ちかねたぞ。全く、お前と言うやつは」
 褐色の肌をした銀髪の男が、しかめ面をしながら廊下の柱に背を預けている。彼はこの暑いのに、黒のスーツを着ており、ぴしっとした印象を受ける。廊下の窓からは、真っ青で雲ひとつない空が見えた。
「ご、ごめん。遅くなった」
 なんだか彼のことを見ていられず、私は目を逸らした。なんで、"人の姿"のときは、こんなにいつもどおりに話せないのかと、自分で自分が腹立たしい。彼の名は…
『あれ…なんだっけ』
 彼の名は…わからない。私は彼のことを猫大使と呼んでいる。彼は冥界から現世への大使であり、私のアパートにいたころは白い猫の姿をしていたから、そう呼んでいたのだ。
 今いるここは、私のアパートでも無ければ、日本でもない。ここは冥界にある、猫大使のお屋敷。ため息が出るほど広い、彼の城である。私は昨日から、客の身分としてここに招かれているのだ。
 猫大使は、私のアパートにいたころはずっと猫姿だったのに、このお屋敷ではずっと人の姿をしている。彼が人の姿になれることは、前から知っていた。だが、しかし。彼は1ヶ月半程度、猫の姿で私と接していたのだ。違和感が半端ではない。もちろん、今まで通りにフランクな会話ができない理由はこれだけではないのだが。
「服はどうだ。きつくはないか?」
 軽く伸びをして、猫大使が私に聞く。
「う、うん、大丈夫…」
 貸してもらったワンピースを軽く引っ張りながら、私は言った。このお屋敷に来た時、私は何も荷物を持っていなかった上に、着ている服は冬服だったのだ。日本は冬だったからなのだが、こちらは夏で、今まで着ていた服では外に出るだけで熱中症になりそうだった。仕方なしに、私は服を借りることにしたのだ。この服は、正確には彼の物ではない。
「よくお似合いですよ」
 そう言って、1人の女がぬうっと顔を見せた。緑色の髪、白い肌、そしていかにも優しそうな顔。彼女は猫大使のメイドである。そう、今着ている服は、彼女の物なのである。
「あ、ありがとう、ございます」
 なんと返事していいかわからず、私は適当な言葉を返した。彼女とは、昨日この屋敷に来て初めて会った仲である。なのに、服を借りてしまっているというこの状況。どれだけ気を使うものだか、お分かりだろうか。
 そもそもの始まりは、猫大使が「街へ行く」と言い出したことだった。私はここへ来る前、猫大使のお使いで、白い石を借りに行っていた。その石は、私と大使が関わっている、ジュエフという少年の病気を治せる力を持った、ジャンガンと言う名前の霊石だと言う。しかし猫大使も、この石を使えば病気を治せるということまでしか知らず、具体的な使い方を知らなかったのだ。彼が街へ行くのは、知り合いの偉い先生に、この石の使い方を聞くためだと言う。そこで大使は…
『お前も関係あるだろうし、知っておくべきだろう。一緒に来てくれ』
 と言ったのだった。
 確かに彼の言うことは一理ある。だが、しかし。昨日いきなりこちらへ来て、右も左もわからない状態の私がついていって、どうにかなるものだろうか、とも思ってしまう。冥界の、この国の言葉すら話すことも出来ないのだ。しかも、こちらへ来たのは予定されたことではなく、突発的な出来事だったため、財布やハンドバッグなどの最低限の物しか持っていないというのに。特に、最低限の洗面用具や化粧品はあるが、服はないのだ。それを大使に言うと。
『服がないだと?そう言われればそうじゃな。おい、貸してやれないか』
『で、ですが…』
『悪いとは思っているが、仕方ないじゃろう。すまぬ、貸してやってくれ』
 と、メイドに言い始めた。大使が頭を下げるのを見て、メイドも何も言えなくなったらしく。渋々、服を貸してくれた。
「…どうした」
 大使が困惑顔で私に聞く。知らぬうちに、私は不機嫌な表情になっていたらしい。
「ううん、なんでもない」
 と言いながら、私は無理に笑顔を作る。なんでもないはずがない。そもそも、服というのは肌が触れるものだ。それを他人と共有するだなんて。
 私は、自分の服を他人に貸すのは構わない。気にならないからだ。だが、世の中にはそれを気にする女性もたくさんいる。このメイドがどう思っているかはわからないが、常識的に考えて、衣服やアクセサリの貸し借りなんてするものではないだろう。それをさらっとやらせるなんて。猫の姿をしている時から思っていたが、デリカシーがないのだ、この男は。
「あの、すいません、洗って返しますから…」
「大丈夫ですよ。お帰りになられたら、こちらでお洗濯いたします」
 申し訳無くなってメイドに謝るが、彼女は別段気にしていないような顔をしている。彼女自体、私にある程度敵意を持っているのだ。どうも彼女は「旦那様」が、私と仲良くしているのを見るのが非常に気に食わないらしい。昨日も、それをあらわにした場面があって、怖くなったばかりだ。しかも、彼女曰く「自分は人間ではない」とのこと。人間ではない生物…らしいのだが、なおさら怖くて仕方ない。
「さて、行くぞ。ここから車で30分程度だ。留守を頼む」
「はい。いってらっしゃいませ」
 大使がそう言うと、メイドが深々と頭を下げる。私は、やや気後れしながら、大使の後をついていく。大使のスーツの背中には、シワひとつない。なんとなしに、父のスーツ姿を思い出す。サラリーマンだった父のスーツの背には、シワがいくつもついていた。私は子供の頃、そんな父の背中が好きだった。映画の俳優みたいな、ぴしっとして生活感のないスーツ姿より、父のようないかにもだらしない、「お仕事」をしているスーツが好きだった。そういう意味でも、大使との距離を感じてしまう。
 ガチャ
 屋敷正面の、馬鹿でかい扉を、大使が開く。思えば、昨日ここに来たのは、よくわからない転送機を使ってだった。正面玄関から外に出るのは初めてだ。
「うわっ」
 いきなり、熱気が襲い掛かってくる。日焼け止めを塗っておいて正解だった。無精をしている私のハンドバッグは、夏も冬も中身が変わらない。友人に、全く必要のない邪魔なものが入っていることを馬鹿にされもしたが、それが幸いした形だ。
「今日も熱いな。全く、毎日毎日…」
 玄関前のステップを降り、大使が前庭を進んでいく。こんな豪華なお屋敷に住んでいる大使のことだから、馬鹿でかいリムジンかなにかを用意しているのだろうか。また気を使ってしまう、と少々気落ちしながら、ついていく。
「さて、行くか」
 大使に声をかけられ、私が顔をあげる。
「…え?」
 その目の前にあったのは、どう見ても日本産のコンパクトカーだった。いわゆる軽四というやつだ。
 ブルルルルッ!
 大使がキーを回すと、えらく可愛らしい音ともに、エンジンが回り始める。
「どうした、乗れ」
 大使がミラーをチェックし、シートベルトを締める。
「え、えーと。運転手さんとか、いないの?」
 助手席に乗り込みながら、私が聞く。車内はかなり暑い。卵を置いておけば、ゆで卵になるのではないかというくらいに。
「この屋敷には、俺の他にはさっきのメイド以外、誰もおらんのだ」
 当然のことのように、大使が言う。
「え、ええ?そうなの?」
 たしかに昨日から、メイド以外の使用人を見ないと思っていたが、まさかいないとは。だって、こんな大きなお屋敷だ、他に人がいるのではないかと考えるのは極当然のことだろう。
「よって、運転手も今ではおらん。なに、運転ぐらい出来る。任せろ」
 今では?じゃあ昔はいたのか?なんでいなくなったのか?なんであのメイドは残ったのか?そもそも、大使はどういう生まれで、どうしてこんな生活をしているのか?
 聞きたいことが山ほど出てきた。が、聞こうにも、遠慮が先立って聞けない。
「うむ、実に1ヶ月半ぶりの運転じゃな」
 そんな私の思惑を知らず、大使はごきげんだ。カーステレオのスイッチを入れると、恐らく大使の国の言葉であろうラジオが流れだす。エアコンを入れると、生ぬるい風が噴出す。何の気無しに後部座席を見ると、なんだかよくわからない荷物が積みっぱなしだ。あれ、おかしいな、シワひとつないスーツという、現実味のかけらもないかっこよさを見せていたはずなのに。
「…」
 今まで、大使のことを、私は雲の上の存在か何かのように考えていた。しかし、こんな庶民派なところを見せられるとは。安心半分、落ち込み半分である。
 やはり、肝心なところでデリカシーがないのだった。


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