猫大使様
その2 「猫大使様空腹でおられる」の巻
「おい小娘」
呼んでる。私は返事をしない。
「小娘、聞いていないのか」
また呼んでいる。私は返事をしない。今、私はベッドで遅寝の真っ最中、邪魔されたくないのだ。相手は諦めて、私を呼ぶのをやめた。
私の名前は羽道晴美。読みは、うみちはるみ。どこにでもいるただの女だ。職業はイラストレーター兼アルバイター、アルバイトの方が収入は多い。
さっき私を呼んでいたのは、白い猫。名はわからないが、彼は自分のことを「猫大使」と言っていた。なんでも、冥界から人間界へ来ている大使だとかなんとか。私の部屋に、住まわせてくださいと言ってきたから、住ませてあげている。
相手が猫であるとはいえ、自分の方が上の立場に出られると言うのは、非常に気分がいい。猫大使は、人間界の情報に疎いようで、私が言うことを色々と真に受けている。例えば、居候は主に尽くさねばならないとか、多少理不尽なことがあっても今の時代の人間関係なんてそんなものだとか。猫大使は、全て信じて、私におとなしく従っていた。
「まったく、汚くしおってからに…」
猫大使がぶうたれながら、何かをしている。音の鳴る位置からして、昨日脱ぎ散らかした私の外行き服を集めているのだろう。あんまり彼に労働させるのもよくないと思った私は、ベッドから手だけ下ろして、服を掴もうとした。
むにゅう
「うげ」
掴んだのは、服ではなく、猫大使の柔らかな首だった。猫大使はすぐに私の手を振り払い、どこかへずりずりと去っていった。
「ごめんー、眠いから、ほっといて…これも自己管理の一環なんだから…後で掃除するから…」
ようやく私が返事をする。
「ふん。部屋の片付けも出来ない女が、自己管理が出来ようはずもない。そんなことでは、嫁の行き方も知らぬまま、人生を゛っ!?」
ぶううん!ぶううん!
猫大使の言葉の途中で、私は猫大使の首根っこをひっつかみ、ぶんぶん振り回した。
「おぶっ!おぶっ!おぶっ!うわあああああ!」
猫大使は何か喚いていたが、すぐに静かになった。相手が猫サイズだから、こんな荒技も出来る。少しして飽きた私は、猫大使を放り投げた。猫大使は、壁にべたんと貼り付き、ずるずると落ちて地面に倒れた。
「この、小娘が…」
なんだか、死にそうな顔をしている。まあ、仕方ない。彼は私の家の居候なのだから。居候にあるまじき扱いをしている気がするが…まあ、いい。
「で、何?」
起きあがり、大きくあくびをして、私は猫大使を見据えた。
「部屋の掃除のこともあるが、まずは飯だ、飯。貴様、ワシの飯はどうした?」
尻尾をぱったんぱったんして、猫大使が言う。この猫は、猫の手のせいで、缶詰を開けることも出来なければお箸を使うことも出来ない。辛うじて、ナイフとフォークを使う程度の事なら出来るが、それもあまり長い物だと不可能だ。食事は私が用意しなければ食べられないのだ。
「待って、今作る…」
起きあがり、大きく伸びをして、台所へと向かう。ご飯は昨日食べ尽くしたし、ソーセージももうない。冷蔵庫の中に、食べられそうなものは、ほとんどない。バターに、卵に牛乳に、わさびに、しょうがに…。
「んー」
カップラーメンでも作るか、と台所上側の戸棚を開けると、どさっと何かが落ちてきた。白い粉の詰まった、個別包装のパック。
「ホットケーキミックスだ」
袋を持ち上げ、私が言った。
「いいな。ホットケーキは好きだぞ」
満足げに頷く猫大使。粉もたっぷりあるし、2人がお腹一杯になるには、ちょうどいい量だ。2人…2人?まあいい。
ボールを取りだし、粉を入れる。卵を割り入れ、牛乳を注ぎ…。
「待て、小娘。何をするつもりだ」
「え?」
続いて、冷蔵庫からマヨネーズを取り出した私を、猫大使が引き留めた。
「マヨネーズ…油と卵と酢だから、隠し味に入れるとふわふわになるんだよ」
私の家では普通のホットケーキの作り方だ。別にそれほど面倒くさい手順でもないし、これを入れるだけで美味しくなるのだ。劇的に、という程ではないけれど。
「下手物料理をこのワシに振る舞おうというのか、貴様は」
「下手物じゃないし。食ってから文句を言うならまだしも、作る前から文句言うってどういう了見?」
「作らずともわかる。そんなものをホットケーキに入れるなど、聞いたことすらない。冥界の、ワシのメイドは、そんなものは入れなかった」
「メイドさんがどうだか知らないけど、実際美味しくなるもん」
ぶびっ
「ああー!」
私は、有無を言わずにマヨネーズを投入し、かき混ぜた。猫大使が、驚いた顔になり、絶望した顔になり、そして怒り顔になった。
「イヤなら食べないでもよろしいわよ、猫大使様」
そんな猫大使を放置して、暖めたフライパンに、生地を流し込む。
「いや、食う。お前がそれほどまでに言うのならば、我が舌で我が正当性を証明してやる」
猫大使は、びょんと飛び上がり、シンクの上に乗った。降ろそうかとも思ったが、面倒くさくなって止めた。
「あんた、冥界でどんな生活してたの?」
フライパンには1度に1枚分の生地しか乗らない。暇になった私は、猫大使に話しかける。
「豪華絢爛、とまでは行かぬが、満たされた生活をしていた。メイドとワシの2人だ」
「へー、メイドと。メイドを雇うほどお金が?」
「もちろんだ。今回は持ち出さなかったが、こちらの価値で言うならば、新宿区を買い占めるくらいの金額はあるのだぞ」
「すごいねえ」
ぱたん
話半分に聞き、ホットケーキをひっくり返す。裏側には、いい具合の焼き色がついている。これで、表側が焼ければ、ホットケーキの出来上がりだ。ボウルの中の生地から見て、後2枚は焼ける。猫大使に1枚、私に2枚、それぐらいでちょうどいいのではないだろうか。
「置いて来ちゃってよかったの?メイドさんと来て、こっちに部屋でも取ればよかったのに」
「そんなことは出来ん。こちらには、どんな危険があるかわからぬのだ、無理に連れてくることは出来なかった」
頭を横に振り、猫大使が言った。
「現世に派遣されることになったと、メイドに話した日のことは、今でも忘れられぬ。大きな瞳に、涙を溜め、どうかご無事でお戻りくださりませ、それまでお待ちしておりますと来たものだ。どうも、女の涙は好かぬ。こちらまで悲しくなる」
前足で、決まりが悪そうに後頭部を掻く猫大使。彼にも、いろいろあったのだろう。
「さて、これがあんたの分」
焼き上がったホットケーキを皿に載せ、猫大使の前に置く。猫大使は、ふんふんと匂いを嗅いで、ぱくりと食べた。
「あつうう〜〜!!!」
べたん!
突然口を押さえた猫大使が、床に転げ落ちた。
「あー、焼きたてだから…バカだねえー」
くすくす笑う私に、猫大使は不機嫌な顔をして、またシンクの上に昇った。
「ふ、ふん!笑いおってからに!」
とても恥ずかしかったのだろう、猫大使は一発で不機嫌になってしまった。
「そんなに恥ずかしがらないでもいいのに。ほら、いい子いい子」
ぐりぐり
猫を撫でるように、頭を撫でる。それが更に、猫大使のプライドを刺激したらしい。猫大使は私の手に爪を立て、手を払った。
「だいたいだな、貴様は気遣いが足りんのだ!さらに言うなら、料理の技術なども、あったものではない!この間も、卵を割るとき殻を入れたりしておったよな!ほんっとうに、嫁の来手もおらぬぞ!」
にゃあにゃあと文句を言い、猫大使が私を罵った。むか、とした私は、フライ返しを置き、フライパンを手に持った。
「ああ、そう。料理の技術が無いって言うのね。じゃあ、見せてあげましょう、とっておき」
精神を集中し、フライパンを両手で持つ。今やろうとしているのは、ホットケーキを空中に投げ出し、ひっくり返す技術。小学生のころ、調理実習でやって、受けをとった私の十八番だ。ホットケーキはステーキなどと違い、油も出ないため、この方法でひっくり返しても危険はない。
「ふううう」
だんだんと、ホットケーキの表面に泡がぷつぷつと立ってきた。今なら、タイミング的にもちょうどいい。行こう。
「ええい!」
ぶうん!
フライパンを振り上げる私。ホットケーキは、宙を舞い、そしてフライパンに戻って…。
べしゃり
戻って、こない。
「あ…?」
ホットケーキは、まだ固まっていない柔らかい方を下にして、猫大使の背中に抱きついた。
「ぎゃああああ!うあっちいいいいいいいい!」
がちゃあん!
「きゃあ!」
背中にいきなり高温のホットケーキをぶつけられた猫大使は、牛乳を計ったときの計量カップを蹴っ飛ばし、床に下りた。
「熱い熱い熱い熱い!」
そして、走るに任せて部屋の方へ入ろうとする。そっちには、イラストの資料などの紙や、電化製品などがあるのだ。もしホットケーキがあちこちに飛び散ったら、大変なことになる。収入もほとんどないのだ、買い換える事すら出来ない。
「そぉい!」
ぐしゃあ!
とっさに私がとったのは、猫大使を踏みつけるという行動だった。
「ぎゃああああ!やめろおおおおおお!」
「やめない!」
すぐに猫大使を抱き上げ、背中のホットケーキをシンクに投げつける。溜まっている汚れ物を、横にぎゅっと退け、金タライをシンクにぶち込む。水を流しながら、私は猫大使を金タライに投げ入れた。
「うひゃあ!つ、冷たい!」
ばたばたと暴れ、水が飛び散る。私は猫大使の背中についたホットケーキを洗い流した。指で触った感じ、火傷にはなっていない様子だ。少し冷やしておけば、すぐに平気になることだろう。
「貴様ぁぁぁぁ、よくもこんなことを…」
ようやく落ち着いてきたらしい猫大使が、私のことを睨んだ。
「ごめんごめん、まさかホットケーキが飛んでいくとは思わなくて…」
「失敗したときのことは、いつでも考えておけ!阿呆が!」
すっかり猫大使を怒らせてしまった。うーん、こんなはずではなかったのだが。ホットケーキは1枚ダメになってしまったし、割り当てが減ってしまった。
この後、猫大使は夜までずっと怒っていて、私を許してはくれなかった。まあ、失敗してしまったのだからしょうがない。これから、彼との生活が長く続くか、すぐに終わるかはわからないけれど、もう少し気をつけることとしよう。
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