猫大使様
その19 「猫大使様お客とお茶なさる」の巻


 それは、とても重苦しい空気のお茶会だった。私、羽道晴美は、初めて来たお屋敷の談話室で、やたら高そうなカップに注がれた紅茶を飲みながら、自分の肩まで伸びた髪をいじくっていた。丸いテーブルの斜め向かいに座る、白く短い髪に褐色の肌をした細身の男は、手元に本を持ち読みふけっている。そして男の隣には、青い髪を私と同じくらい伸ばしている女が座っており、並べてあるクッキーを食んでいた。
 男はジーンズにポロシャツという非常にラフな格好をしており、女は動きやすそうなメイド服を着ている。どちらも薄い。対する私は、冬用の衣服を着ている。部屋の中はやや暖かく、この服では暑い。ふ、と窓の外を見ると、かげろうがゆらゆらしている。どうやら「こちら」は夏らしい。
「…」
 非常に居心地が悪い。男と女にとってはとてもくつろげる空間なのだろうが、私には広すぎるしおしゃれすぎるしやりにくいことこの上ない。
「〜〜〜〜?」
「〜、〜」
 女が紅茶のポットを差し出し、何事か言った。男が本から顔を上げ、頷く。聞いたことすらない言葉だが、意味は大体わかる。恐らく、
「お茶のおかわりはいかがですか?」
「ん、頼む」
 という感じだろう。きっと、だけど。
「…」
 何も言えず、俯く。私がこの屋敷に来るまでには、かなりの波乱万丈があった。上手く思考がまとまらないし、説明も出来ないが、ともかく「いろいろ」あったのだ。
「ね、猫大使。さ、さっきから、何の本を読んでるの?」
 ややどもりながら、私は目の前の男に話しかけた。猫大使と呼ばれたその男は、本から顔を上げる。
「医療の本だ。ジュエフのために、な」
「そう、なんだ…」
 そして沈黙。私は言葉を続けられず、黙りこんでしまった。男がまた本に目を落とす。
 まず、今私がいるこの屋敷は、「冥界」という世界にある、目の前の男の持ち物だ。この男は、冥界と現世を結ぶ大使である。ひょんなことから現れて、私の家に2ヶ月ほど住んでいた。
 私の家にいるとき、この男は白猫の姿を取っていた。だから、猫大使と呼んでいた。もしこのイケメンの姿で私の家に住んでいたら、私のような根暗系女は風呂場のカビみたいになってたかもしれない。
 猫の姿だから、猫大使と話したりバカやったり出来たのだ。この姿の大使相手では、緊張して何も言えない。実は、彼の人間形態の姿を、出会ってから1ヶ月くらいの時点で写真では見たことがあったのだ。だけど、こうして動いてしゃべる「ヒト大使」を見たのは今日が初めてである。しかも、前もって心の準備をする時間があったわけでもない、何も話せなくなってしまうのも無理はない…と、思ってほしい。
 そして、彼が言ってるジュエフというのは、同じく冥界人の少年の名前だ。もともと冥界の孤児院にいたのだが、ひょんなことから現世に迷い出て、この1ヶ月とちょっと、私が預かっていた。
 ジュエフには、ここ2年間より前の記憶が無い。そして、家出をしたときの前後の記憶もない。更に、孤児院の職員が「彼はいじめられていた」と証言していたのに対して、ジュエフは「いじめられてなどいない」と言う。色々と、謎の多い少年である。
 そのジュエフから逃げて、私はここへと来たのだ。以前受けた健康診断で、彼の中には2つの魂があり、その片方が「悪魔」だということが判明した。そのため、入院することになった…のだが、数日後に病院を抜けだした彼は、院内着とスリッパという姿で私の前に現れたのである。襲われるかも知れないと思った私は、逃げながら猫大使へ連絡。猫大使の手によって、冥界へと逃げ延びた。
『でも…』
 でも、だ。なんとか逃げ延びた今でも、ジュエフの顔が頭から離れない。彼は何度も「話がある」と言い、逃げる私に涙まで見せた。私は、てっきり悪魔が演技をしているものだと思い込んでいた。が、もしあれが本人であったら…。
『あやつがどんな状況なのか、把握などしておらんじゃろう。俺だってそうだ。なのにお前は、あやつを悪魔だと言い放ち、来るなと声を張り上げておった。言いたいことがわかるか?』
 と、猫大使はさっき言った。私は、つまり…。
『うう』
 今更気づいても遅いのだ。戻ったところでどうしようもない。そういえば、猫大使と一緒に現れた男が、ジュエフのことを取り押さえていたはずだ。名前はマーロン・八芭。メガネをかけた細身の男で、一応猫大使の部下らしい。彼はジュエフを捕まえた後、どうしたのだろうか。
「ごめん、トイレ、どこかな…」
 かちゃ
 カップを置いて、私が聞く。
「ん?あぁ、案内してやってくれ」
 大使が言うと同時に、メイドが立ち上がった。
「こちらです」
 メイドが部屋を出ていくのを、私が追う。廊下に出た後、メイドは大使に会釈を1つしてドアを閉めた。先へ立ち、さっさと歩くメイドに、私がついていく。
「…」
 このメイドの動き、隙がない。そして、異様に肌が白い。ろうそくみたいな白さだ。足も早い、ついていくので精一杯だ。と。
 ぴたっ
「わっ」
 廊下を曲がった辺りでメイドがいきなり立ち止まった。私は背中にぶつかりそうになって、立ち止まる。
「えと、ここ?」
 ちょうどそこにあったドアを覗きこむ私。どう見てもトイレではない、ただの部屋だ。すると、くるりとメイドが私の方へ振り返った。
「あなたの話はよく聞いております」
 メイドがにっこりと笑う。それは不自然なくらいに。
「えーと、急になにを…」
「旦那様があなたのことをよくお話なさるのです。いろいろと教えていただきましたわ」
「え、えーと、それは、どうも」
 気後れをした私は、曖昧な笑みを浮かべた。
「うふふ、なかなかに愉快な方だと聞いておりますわ。なんでも、旦那様のことを壁に投げ飛ばしたり、床に叩きつけたりということをしていたそうですね。1ヶ月の半分はピザとホットケーキ、旦那様のことを抱いて愚痴を言うとか」
 そう言われ、私は背筋が凍りついた。なぜなら、それは事実だからだ。猫形態の猫大使に対して、そのような暴行を働いたことがある。
「冥界の名家出身の貴族である旦那様をそのように扱うだなんて、驚きを通り越して呆れを感じてしまいますわ。全く、現世生まれの女性というのはこちらの常識で考えると信じられないようなことをするのですね」
「い、いえ、たぶん私だけだと思う、えと、思います。いくら猫の姿とは言え、そんなことするのは…」
「あら、そうなのですか?うふふ、ならばなおさら信じられませんね。しかもその話を、旦那様は嬉しそうにするんですよ。なぜなんでしょうね、ねえ、なぜ?」
 にっこり笑っていたメイドが、ゆっくりと目を開く。その目は、笑っていなかった。本能的な恐怖が、私の胃袋をぎゅうっと掴む。
「あなたがお客様だということは十二分に理解していますわ。でも私はあなたのことが妬ましくて妬ましくて仕方ないのです。だって、私の旦那様にそんな事出来るなんて、羨ましくて羨ましくて。私など、お体に触れることすらろくにできないというのに。旦那様は、旦那様は…」
 少しずつ、メイドが近づいてきている気がする。口から吐く言葉は、まるで呪文か何かのようだ。要するに、私が大使と仲良くしていたのが気に入らないと言っている様子だ。
「小さい頃の旦那様はとても可愛くて、いつか私は旦那様と…」
「あ、あの!」
「はい?」
 勇気を振り絞り、私はメイドの言葉に割り込んだ。メイドは笑っていない目のまま、私の目をじっと見つめた。
「え、えーと」
 どうしよう。特に何か考えがあって、彼女の言葉を遮ったわけではなかったのだ。とりあえず猛攻をかわすことだけ考えていた。なので、言葉が続けられない。一瞬のうちに、いろいろな考えが頭の中を駆け巡る。そして。
「に、日本語、お上手ですね」
 これしかない、という結論に至った。だってこの子、冥界の言葉と日本語、両方使ってるみたいだし。
「…は?」
 その言葉は、メイドにとって予想外だったらしく、表情がそのまま固まっている。
「だ、だって、冥界人なんでしょ?日本語上手いなーって。留学とかされてたんですか?そういえば大使だって日本語上手ですよね!そういう教育を…」
「…もう、いいです」
 まくし立てる私に向かって、メイドがため息をつく。
「トイレは、そちらの扉になります」
 そう言って、メイドは廊下の奥の方にあるドアを指さした。
「ありがとう」
 そそくさと、私がその場を離れようとする。と。
 がしっ!
「うっ!」
 メイドが私の肩を掴んだ。
「これだけははっきりさせておきましょう。もし旦那様に何かする気があるならば、私も何をするかわかりませんから」
 ぎらっ
 メイドの口の中に、鋭い牙が見えた。
「怖っ!なにその歯!?」
 思わず私の口から率直な感想が出た。そして、しまったと思った。相手が誰であれ、身体的特徴をけなすのはよくない。そういう教育を受けて、私は育ってきたのだ。そうでなくても相手は私に敵意を持っているのだから、何をされるかわからない。
 しかし、メイドは特に何も言わなかった。手を離し、澄ました顔に戻り…
「私、ヒトではありませんもの」
 と、言いやがったのだった。


「なるほどな。お前なりに考えたのか」
 部屋に戻った後。私は大使に、ジュエフについて考えたことを話した。さっきまで頭の中をもやもやしていた考えを吐き出して整理したかったというのもあるが、何も言わずにいられなかったのだ。メイドはといえば、さっき私に食いかかったことなどすっかり忘れ、澄まし顔をしていた。
「悪魔が怖い一心で逃げてきたけど、あのジュエフはどっちのジュエフだったんだろうって…」
 肩を落とし、私が自分の膝を見つめる。
「まあ…これは責めることではないが、お前はあの病気に対して、そして悪魔という存在について、まだ理解が浅いな」
「理解が?」
「そうだ。俺のように、身近にそういう存在がいた者ならば、どういうものだか理解はしておる。しかし、お前は現世で今までずっと過ごしてきて、あんな病気も悪魔も見たことすらないだろう」
 大使は立ち上がり、軽く伸びをした。
「偏見を持たれないよう、先に行っておこう。こいつは、生き物としては悪魔だ。悪魔、なんていい方はしているが、その本質は人と全然変わらないのだよ」
 ぽん、とメイドの頭に手を置く大使。ここは、既にメイドからそのことを聞いていた話をするべきだろうか、どうするべきだろうか。そんなことを考えながら、クッキーに手を伸ばす。
「さて。ジュエフの病気のことについて、だな。俺も実は、最近勉強を始めたばかりで、よくは理解しておらんのだ。えーと」
 本棚へと歩いて行った大使は、並んでいる本の背表紙を手で撫でる。
「どれだったかな、これか…」
「その右隣の本ですわ」
「おお、そうか」
 いつの間にか、メイドが立ち上がり、大使の隣に立っていた。行動が素早い。大使が本を取ろうと手を伸ばすと同時に、メイドが手を出し、大使の指に触れる。
「あ…」
 メイドが一瞬顔を赤らめた。女の私にはわかる。あれは、演技だ。狡いことしやがる、と、なぜだかむかっとした。
「この本だ」
 大使はそんなメイドを無視して、本を取って私に見せた。メイドの顔が、一瞬不満気になったのを、私は見逃さない。
「えーと…」
 表紙を見て、私は黙り込んだ。大使が以前冥界から送ってきたEメールと同じような、見たことすらない文字がずらずらと並んでいる。
「…読めない。なに、これ」
「まあ、待て」
 大使は本のページをめくり、大使が差し出す。そこには、人間の体の絵が描かれていて、その中に丸が2つ入っている。
「ジュエフの病気について書かれている。寄生性生命腫瘍の話だ」
 大使が図の下に書かれた文字を指さした。全く読めない文字だが、恐らく大使の今言った病名が書かれているのだろう。
「非常に症例が少ない病気だ。現世でも同じ病気を発症する場合があるが、多くは双子を妊娠したはずが1人で生まれてくる場合に発生する」
 椅子を引っ張ってきて、大使が私の隣りに座った。ふわっと、何かの匂いがする。なんだろう、この匂いは。
「ここだ。訳しながら読んでやる。すべてのもの、それは生き物において、ある、生命の元、それを呼び、生成される、おおよそ自然に。まとめると、すべての生き物が生まれるとき、生命の元…魂が自然に出来上がるということじゃな」
 そういって、顔を寄せる。
 顔が、近い。というか、大使が近い。私は、顔に血が集まるのを感じた。そして、体温が上がるのも。
 服のせいで暑いのならば、仕方ない。上着は脱いでいるが、下に着ていたのはセーターなのだし。だが、今暑いのは絶対に別の要因だ。
「魂に関しては、どのように出来上がるかの仕組みがわかっておらぬのだ。そも、魂自体を観測出来るような明確な指標がない。人が見て、生きているか死んでいるかを確認するという原始的な方法しかない。そちらでもそうだが、宗教的な見方や、一部の霊医学者などは、人以外のものに関しては魂がないとも…」
 大使が何か言っている。が、頭に入らない。耳から入ってこないし、入っても抜けてしまう。頭が軽くなり、ぼうっとしてしまう。今までに味わったことのない感覚だ。理由は十二分にわかってる。
 この気持をたとえるならば、ときめき…だろうか?そもそも私は、男の子と友達になったことなんか、数えるほどしかないのだ。ときめいてしまっても仕方ないと…。
「うっ」
 大使の肩越しに見えたメイドの顔に、私は胃の中が冷たくなるのを感じた。彼女は、嫉妬していた。強く。どんな鈍感な人間であろうが理解できるほどに。
「た、大使。いいよ。私、自分で読むし。読み聞かせなんて、子供じゃないんだから」
 やばい。大使から離れなければならない。そう思った私は、椅子を引いた。
「何を気を使っておるか、阿呆。お前、読めんのじゃろうが」
 大使が苦笑した。
「気を使ってるわけじゃないんだけど、ね。えーと…」
「なんじゃ、もしかして飽きたか?もう少しだ、我慢せいよ。知っていると知らぬでは大違いなのだからな」
 そう言って、大使が本を持ち直す。そのとき。
 するっ
「あっ」
 大使の手から、本が落ちた。とっさに私が手を伸ばす。大使も手を伸ばす。
 がつっ
 2人の手が、空中で交差し、ぶつかった。本は床に落ちた。
「っと、ああぁっ、ごめん!」
 とっさに手を引く私。大使は怪訝そうな顔をして、本を拾い上げる。
「お前、変だな。どうした」
「ど、どうもしないし。大使こそ、なんでそう思うの?」
「どうもおどおどしているように見えるんだがな。まあ、初めて来る場所でくつろげと言っても、無理があるかもしれんな。おい」
 大使がメイドの方へ振り返る。
「客間は使えるようになっているか?」
「ええ。問題ありません」
「よし、こいつを連れて行ってくれ。だいぶ疲れているようだ」
 大使が本を本棚に返しながら言った。
「…かしこまりました」
 メイドにしてみれば、そこまで私に対して気を使う大使を見ているだけで、悔しくて仕方ないのだろう。2人きりになったら、何を言われるか、何をされるかわからない。しかもこのメイドも、悪魔だと自分で言っていたではないか。
 私は大使に「この子と2人きりにしないで…」というアイコンタクトを送った。猫大使は猫の姿の時、アイコンタクトでだいたいのことを理解していた。例えば、ホットケーキを焼いたとき。「はちみつを出して」と目線を送っていたら、彼ははちみつを出した。ピザを頼んだとき。「ピザカッターを出して」と目線を送っていたら、ピザカッターと皿を咥えて持ってきた。きっと今回も…。
「そんな目で見るなよ。後でちゃんと、ジュエフのことは話しあおう。な?」
 笑顔を見せる猫大使。違う、そうじゃない。そうじゃないんだよ、と叫びたくなるが、叫ぶわけにもいかない。かといって、ここで下手に遠慮などしたら、なおさら大使は私に気を使い、メイドが怒り…のパターンになるだろう。ここはもう、従うしかない。
「…ありがとう」
 うわべだけのお礼を言い、私はハンドバッグを手にとった。そして、メイドの後を付いて行ったのだった。


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