猫大使様
その18 「猫大使様お客を呼びなさる」の巻


 歩き出した私の目に映るのは、人、人、人。多くの人が、休日の街を歩いている。冬も最中だが、空は晴れ渡り、風さえ吹かなければ暖かい。その中を、私は小走りで進んでいた。
「はぁ、はぁ」
 肺が痛い。だが、走らなければいけない。そうしなければ、「彼」に追いつかれてしまう。足を止めてはいけない。助けは呼んだが、それが本当に来るかどうかもわからない…。
 私の名前は羽道晴美。イラストレータをしている、何の変哲もないただの女…である。どこにでもいるような、あまり特徴のない、面倒くさがり屋。今、私は「ジュエフ」という少年から逃げている。
 視界の中に、ジュエフはいない。金髪で、細い体。白い肌、そしてどことなく卑屈な微笑み。なぜ彼から逃げる必要があるのか、というのは少し長い話になる。
 まず、ジュエフは冥界という世界の孤児院にいた少年である。彼は、1ヶ月とちょっと、私と、もう1人の同居人と一緒に、日本の私の部屋に住んでいた。孤児院から家出をした末に、日本へ来てしまったという話だ。前にいた孤児院では、ジュエフに対するいじめが発生しており、そのせいでの家出だと思われていた。
 ところが、ジュエフは「自分はいじめられていなかった」と言った。いじめのせいで家出をしたという話ではないらしい。彼は「気がついたら家出をしていて」、「冥界の悪い方の割れ目」に迷い込んで「悪魔に襲われ」て、「痛くて辛い思いをした」と言っている。
 そのジュエフ。調べたところ、体の中に2つ魂があるという特殊な病気を患っているらしい。しかも、ジュエフ本人の魂に癒着しているのは「悪魔」という生物に近いものらしいのだ。今ジュエフは入院していて、精密検査を受けているはずだったのだが…。
「あ…!」
 向かい側から、金髪がちらりと見えた。あれは、ジュエフじゃないのだろうか。どうやったのかはわからないが、彼は院内着とスリッパのまま外へ出て、ちょうど買い物中だった私のところへ来たのだ。買い物先は初めて来る店で、ジュエフが知っているはずもない。きっと彼は、悪魔の力か何かで私を探し出し、やってきたに違いないのだ。
「え、ええと、ええと」
 このまま見つかれば、私はどうなるかわからない。悪魔に八つ裂きにされるかもしれない。どこか、どこか逃げるところ…。
「あそこだ…!」
 近くの公園に、公衆トイレがあるのが見える。公園は小さく、誰もいない。トイレの個室ならば、万が一見つかっても鍵を閉めていれば大丈夫のはずだ。私はそっちへ向かって走る。
 200m、100m、50m、後少し、後少し…
 ざっ
「あぁ…!」
 トイレへ駆け込もうとした私の前に、立ちはだかる影。薄青色の院内着、薄いスリッパ、そして金色の髪。
「はぁ、はぁ…やっと、追いつきましたよ、羽道さん…」
 少年…ジュエフが額の汗を拭い、私の方を向いた。
「こっ、来ないでってば!」
 私は腰を落としながら、後ろにじりじりと下がる。今、手元には「ジャンガン」という名前の白い石がある。これを上手く使えば、ジュエフの中の悪魔を消し去ることが出来るらしい。だが、下手な使い方をすると、ジュエフまでも消し去ってしまうかもしれない。使い方がよくわかっていない以上、うかつなことは出来ない。
「なんで、羽道さん、僕から、逃げるんですか…」
 ジュエフの目は、とても悲しそうで。悪魔が中にいることを知らなければ、私は今にも彼のことを抱きしめ、頭を撫でていたかもしれない。
「あ、あんた、悪魔なんでしょ!私、知ってるんだから!」
「なんで僕が悪魔だなんて…そんなこと、誰に吹きこまれたんですか?」
「カネオさんとか、氷室さんとかが言ってた!」
 カネオというのは、冥界から日本へ来て、輸入業を営んでいるおっさんだ。その秘書が氷室である。2人は、ジュエフが冥界へ帰れるように、私の「もう1人の同居人」と一緒に、仕事をしていた。そのカネオのもとで、ジュエフが健康診断を行った時、ジュエフの中に悪魔がいることが判明したのだ。
「ぼ、僕は悪魔じゃありません!羽道さん、話を聞いてください!」
「聞けないわよ!こっちに来ないでって言ってるでしょ!」
 近寄ろうとするジュエフに向かって、私が金切り声をあげる。ジュエフが立ち止まり、うつむく。
「羽道、さぁん…」
 ぽたっ…
 ジュエフの目からこぼれ落ちた涙が地面に落ちる。
「ジュエフ…ごめんね、でも今のジュエフと私は話せない。だって、あなたは今、とても危ない状態だもの。もう一度、病院へ戻って、治療を受けてちょうだい」
 少し離れたところから、私が声をかける。ジュエフが、ぽろぽろと涙をこぼす。
「ジュエフ、今は病院へ戻ろう?話しなら、その後に聞いてあげるから。ね?」
 1歩、彼に近寄る。と。
「羽道さんは…なんだ…」
 ぽつり、とジュエフがつぶやいた。
「え?」
 よく聞き取れず、私がジュエフの方へ耳を向ける。
「羽道さんは、僕が、嫌い、なんだ」
 今度ははっきりと聞き取れた。ジュエフの肩が、わなわなと震えている。と、同時に、寒かった空気が更に凍りつくように感じられた。
「じゅ、ジュエフ、そんなことは…」
「嘘、だぁ…嫌い、なんでしょ?そうならそうって、最初から、言ってくださいよぉ」
 そう言って顔を上げるジュエフ。涙をぼろぼろこぼしているのに、なぜだか薄ら笑っている。胸の奥がぎゅうっと締め付けられるような気持ちになった私は、ジュエフの顔を見ていられず、目をそらした。
「僕のことが、僕のことが、う、う、うう…!」
 ジュエフが呻き声をあげる。同時に。
 きいぃぃいん…
「うっ?」
 どこか遠くを飛行機が飛んでいるような音が鳴った。何の音だろうか。
 と、顔に影が落ちる。とっさに上を見上げると。
「え?」
 べちゃあ!
「きゃああ!?」
 何かが生暖かい塊が、頭の上に落ちてきた。
「聞くな!」
 その塊が、にゅうっと手を出し、私の耳を押さえる。その瞬間に。
 きいぃぃぃぃん!
「うええ!?」
 平衡感覚を失いそうな高音が、私の耳から脳へと直撃した。耳が塞がっていなかったら、恐らくまともに聞いて、鼓膜が破れていたかもしれない。
「阿呆!刺激してどうする!」
 たしっ
 頭の上にいた塊が、地面に降りる。そして、きりっとした顔をこちらへ向ける。それは…
「猫大使!」
 私の部屋の、もう1人の同居人。白い猫の姿をした、冥界大使。猫大使だった。
「マーロン、後は任せた!」
「はい、大使様のご命令ならば!」
 大使が叫ぶと同時に、1人の男が躍り出た。線の細い男で、メガネを掛け、黒い長めの髪を後ろで束ねている。
「ちょ、大使、あんたどこに…」
「話は後じゃ、来い!」
 猫大使が公園の出口に向かってかけ出した。私は、それを追う。
「今だ、"引き上げ"ろぉ!」
 大使が叫んだ。それと同時に。
 ゴゴゴゴゴゴ…!
 出口の辺りに、いきなり白い球体が現れた。大きさは、軽自動車程度だろうか。真っ白で、脈動するように動いている。
「飛び込め!」
 猫大使が私の頭の上に飛び乗り、たしたしっと前足で顔を叩く。ともかく、あそこに飛び込む他なさそうだ。
「あ…」
 後ろを振り向く。涙でぐしゃぐしゃになった顔のジュエフが、マーロンに抱きかかえられている。その口が声も無く、「羽道さん」と私の名を呼んだ。
「はようせんか、ボケ!」
「わ、わかったわよ!」
 大使にせっつかれた私は、その光に向かって突進した。光に体が触れる。まるで、サラダオイルの海にでも突っ込んだかのような、ぬるっと気持ちの悪い感触が、私の全身を覆った。そして。
 きぃん!
「わあ!」
 眼の前が、真っ白になった。


「おかえりなさいませ、旦那様」
「おう、戻った。いい仕事だったな」
 どこかで声がする。頭が痛い。頬が、冷たい床に押し付けられている感じがする。いや、違う。私が床に倒れているのだ。状況は理解したが、体が重いし頭がズキズキするしで、目を開けられない。
「旦那様、そちらの方が、いつもお話の?」
「ああ、そうだ。こいつが羽道晴美だ。よ、っと」
 と、私はいきなり体が持ち上げられるのを感じた。うっすらと目を開ける。
「あ…!」
 目の前にいたのは、褐色の肌で白い髪を短めに揃えた、外国人の男だった。目鼻立ちはすっきりしており、なんというかその、私の好みの顔立ちをしている。
「無事か。全く、お前というやつは、いつも世話をかけおって」
 呆れ顔で、男が私を下ろす。私はふらふらっとしながらも、立ち上がってその顔をぼうっと見つめた。体が熱くなってきたのは、気温が高いからだけではない。この男のことを、私は知っている。
「ねこ、たいし?」
「おう。こっちの顔を見せるのは初めてじゃな」
 男が笑いながら少し後ろに下がる。目の前にいるのは、猫大使だ。猫大使には、人形態の姿があること走っていた。1度、写真で見たこともあった。だが、写真で見るのと実際に目の当たりにするのとでは、感じ方が違う。
「初めてでは、ないよ。写真で見たことあるもん」
「写真とな?どこで見おった、そんなもの」
「カネオさんのところで…」
 それ以上、何も言えなくなってしまった。もう猫ではないのだから、猫大使と呼ぶのはおかしいのだろうか。名前で呼ぼうにも、名前など知らない。そんなこと思考が、頭の中をぐるぐると回る。
「ここではくつろげないでしょう、上へ行きましょうか」
 と、女性の声がして、私はびくっとした。猫大使の向こう側に、真っ青な髪を肩まで伸ばした細身の女が立っていたのだ。着ているのはメイド服。この人のことも、写真で見たことがある。猫大使のメイドだという話だが、彼女の実物を見るのも初めてだ。
「おう、茶の用意をしておくれ」
「かしこまりました」
 メイドが部屋を出ていく。改めて周りを見回す私。今いるのは、マンガでよく見る研究室のような部屋だ。おかしなガラス管の機械や、工具などが散らばっていて、うっすらと暗い。
「さて、と。お前に聞かねばならぬことがいくつかある」
 かっ
 猫大使の靴が床を蹴り、小気味のいい音を立てた。ずい、と大使が顔を近づける。恥ずかしくなった私は、目をそらした。
「お前は、今のジュエフの状況を、正確に把握しているのか?」
 その口からこぼれた言葉は、とても冷たいものだった。
「え?病気で、悪魔が…」
「そうだ、病気だな。悪魔のような寄生体が魂に癒着しているとの話だな。で?」
 で、と言われても困ってしまう。それ以上は、よく知らないのだ。上手く返事をできず、私は黙りこんでしまった。
「あやつがどんな状況なのか、把握などしておらんじゃろう。俺だってそうだ。なのにお前は、あやつを悪魔だと言い放ち、来るなと声を張り上げておった。言いたいことがわかるか?」
「もっと、ジュエフの気持ちになって…」
「そういうことを言っているのではない。だから阿呆だと言うんじゃ」
 はぁ、と大使がため息をつき、踵を返した。いつもの猫大使相手ならば、腹の一つも立てるところなのだ。だが、相手がこのイケメンでは、上手く反抗も出来ない。そして、言っている言葉の説得力も、なぜだか違うように感じられてしまう。気分が重くなり、私はうつむいた。
「…さて、上へ来い。まだ話をする必要がある」
 猫大使が部屋を出ていく。私もそれに従って、部屋を出るしかなかった。ここがどこだとか、あの光はなんだとか、私の身に起きたこととか。いろいろと、話したいことはあった。だけど。この、大使の背中は、鉄の板みたいに分厚くて固くて。
 何も、言えなくなってしまった。


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