猫大使様
その17 「猫大使様助けに行かれる」の巻


「え、なんで…?」
 それが、私、羽道晴美の口から出た第一声だった。細い体が、かくかくとふるえるのは、寒さのせいだけではない。肩口まで伸びた髪が、顔にかかることにすら頓着できない。
「なんで、って?」
 その少年は、少し悲しそうな顔をした。外階段の踊場から、上にいる私を見上げている彼の名はジュエフ。冥界というところから来ている、冥界人の少年だ。さらっとした金髪、白い肌、そして整った顔立ち。美男子という分類に入る。そんな彼が着ているのは、薄青色をした病衣だった。
「なんで、ここにいるの?」
 その言葉には2つの意味があった。なぜ私がここにいるのがわかったのか。そして、なぜ彼は「病院」から外に出ているのか。
「羽道さんに会いに来たからに決まってるじゃないですか」
 1段、ジュエフが階段を登った、1歩、私が後ろに下がった。どうしよう、どうすればいい、わからない。
 ジュエフは今、病院にいるはずだ。なぜなら、彼は病気だから。なんでも、1つの体に2つの魂が入っているとか言う、奇異な病気らしい。1つ目の魂は、ジュエフ本人。そしてもう1つの魂は…。
「羽道さん、僕の話を聞いて欲しいんです。お願いします」
 ぺたっ、ぺたっ
 よく見れば、ジュエフは薄いスリッパしか履いてない。どこの病院に入っていたかは知らないが、こんな姿で街を歩いていたのだろうか。
「ね、ねえ。あなたは誰なの?」
 じりじりと後ろに下がりながら、私が問を投げかける。
「…」
 黙った彼は、また笑みを浮かべ。
「ジュエフ、です。知ってるでしょう?」
 と言った。それと同時に、私は角に背中をぶつけた。
 彼の中に入っているもう1つの魂は、悪魔に近いものだという話だ。これは、冥界の輸入業者である男カネオと、その秘書の氷室アカネが言っていたことである。魂とか、悪魔とか、正直そのあたりはよくわからないが、危険な状態であるらしい。
「なんで、逃げるんですか?」
 その言葉には、返事が出来なかった。ジュエフの外見は、何もおかしなところがなかった。だが、彼が普通でないことは、明らかに見て取れた。その異様な空気、異様なオーラに、私は圧倒された。
「どうして私に会いに来たの」
 喉がからからだ。無理に声を絞り出す。
「…だって、羽道さんのところにしか、僕の居場所はないからです」
「そういう話じゃなくて、今、病院で治療を受けてるはずでしょ」
「必要ないんです。お医者さんも、僕がなんともないって言ってくれました」
「そんな話、聞いてない。大体お医者さんが、そんなかっこで退院させるはずないじゃん」
「ああ、これですか。僕、早く羽道さんに会いたくて、着替えないで出てきたんです」
 怖い。今のジュエフは、今までのジュエフじゃない。一緒にご飯を食べたりベッドで寝たりしていたジュエフじゃない。
「羽道さん…」
「こっ、来ないで!」
 近寄る彼に、私が金切り声をあげた。こんなのカッコ悪いな、という覚めた思考と、恐怖が入り交じり、よくわからない感情が吹き出る。
 がちゃ!
「なんだい、うるさいよ!」
 と、いきなり横にあったドアが開き、ねずみのような顔をした、背の低い男が顔を出した。そう、私はこいつの店で、さっきまで買い物をしていたのだ。ジュエフの目が、そちらへ向く。
 だっ!
「あっ!」
 私は一瞬の隙を逃さず、ジュエフの横を駆け抜け、階段を降りた。腕がジュエフの胸にどんと当たる。彼の体は、まるで雪のように冷たい。
「なんの騒ぎなんだい?まったく」
 ねずみ男の声が追ってくるが、気にしている暇はない。今はとにかく安全圏まで逃げなくては。走らなくてはいけないことになるんだったら、スカートなんか履いてくるんじゃなかったと思う。
「羽道さぁん!」
 ジュエフの声が響いた。だけど、私はそれを無視して、道を駆け抜けた。


「はぁ、はぁ、はぁ」
 ある程度逃げた。今は、駅近くにあった階段を降り、地下街へ逃げこんだところだ。だいぶジグザグに走りまわったので、ここがどこだかよくわからない。平時ならば面白そうだと思える店もいくつかあったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「ふぅぅ」
 息をついた私は、額の汗を拭った。今は、トイレの中に隠れている。できるだけ人の群れをかき混ぜ、自分の存在を消すようにしながら逃げまわってきたが、もう巻いただろうか。ジュエフが後ろから追ってくる様子はなかったが、まだ危機を脱したわけではないと、私の第六感が叫んでいる。
 私は携帯電話を取り出した。かける相手は、猫大使。猫大使は、冥界から来ている人間界の大使で、白い猫の姿をしている。私と猫大使、そしてジュエフは、ここ1ヶ月半の間、一緒に暮らしていた仲だ。
 元々は、冥界の孤児院ぐらしだったジュエフが、家出をしたところから話が始まった。ジュエフはそのときのことをよく覚えていないらしいが、孤児院では彼をターゲットにしたいじめがあったらしい。それから、別の孤児院に送ろうとして諸事情で失敗したり、ジュエフが2年より前の記憶がないという事実が発覚したりと、いろいろあった。
 そのジュエフのもろもろを引き受け、処理していたのが猫大使だった。彼ならば、何か良い知恵を…
『そうだ!』
 その猫大使のお使いのため、外出をしていたことを忘れていた。ポケットを漁ると、ゴルフボールくらいの白い石が出てきた。なんでもこれは、ジャンガンとかいう石で、除霊効果があるらしい。さっきのねずみ男の店で借りてきたのだ。これならば…
『使い方間違えると消し飛んじゃうからね!』
 ふ、と手が止まる。ねずみ男は確か、消し飛ぶと言っていた。一体、何が消し飛ぶのだろうか。この石がならば、最悪弁償すれば済む。しかし、もしジュエフが消し飛ぶのならば…
『ううっ』
 恐ろしい想像をしてしまった。中にいる悪魔の方だけを消したいのだ、ジュエフを消してしまいたいわけじゃない。
 こうしている間にも、ジュエフは近づいているかも知れない。ノーヒントで私を見つけたのだ、もしかすると魔法みたいな力を使っているのかも知れない。早く、猫大使に電話をしなければ。私は左手でジャンガンを握ったまま、右手の携帯電話を耳に押し当てた。
 プルルルル、プルルルル


 そのとき、その大きな屋敷の脱衣所で、携帯電話の着信を知らせる音が鳴り響いた。ガラスを挟んだ向かい側に、細身の男の姿が映っている。銀色の短い髪、やや黒めの肌。男はシャワーから出る湯を体に浴びているため、着信音には気づかなかった。
「旦那様、携帯電話が鳴っています」
 脱衣所でタオルを手に持っていた、青い髪を肩で揃えたメイドが、風呂場に向かって声をかけた。
「誰からと表示されておる?」
「うみちはるみ、となっております。いかがいたしますか?」
「なんだと。貸してくれ」
 少しだけ戸が開き、ぬうっと風呂場から手が伸びる。メイドはその手に携帯電話を握らせた。飛沫が少し飛び、メイドが顔をしかめる。
 ピッ
「もしもし?」
『ね、猫大使?大変なの、なんとかして!』
 電話の向こうから聞こえてきたのは、若い女の声だった。
『ジュエフが病院から抜けだしてきたの!変な感じで、今私逃げてて!』
「ジュエフが?一体どうなっておる。もう退院したのか?」
『ちがくて!多分、もう悪魔に心を乗っ取られてるんだよ!わ、私、怖くて!』
 何が起きているか、男は理解できなかった。話は要点を得ないし、内容もちゃんと伝わってこない。しかし、それが助けを求めるものだということはよくわかった。悪魔が絡んでいるとなると、うみちはるみは死ぬような目に遭うかも知れない。
「わかった。5分持ちこたえろ。また連絡をする」
 これからするべき行動を考えながら、彼は風呂場から外へ出た。
『ご、5分でいいの?』
「ああ。待っていろ」
 ぴっ
 半ば尻切れトンボに近い形で、電話を切る。そして、メイドが手に持っていたタオルを受け取り、体の湯粒を拭きとる。
「お出かけですか?」
 メイドは男から顔を逸らしながら聞いた。
「ああ。地下の装置を使う」
「あれは電気代がかかります。旦那様がお酒を控えてくだされば、支払いできる額ですが」
 男が言うと、メイドがまた顔をしかめる。
「酒は我慢できぬ。いざとなったら、人件費を削ることとする」
 ばさっ
 畳んであった服を急いで着た男が、前髪を指でつまみ、湿り具合を確認する。
「ご冗談を。今屋敷にいる使用人は私だけ、これ以上削るのは無理ですわ」
「よくわかっておるな。ならば俺の次の言葉もわかるであろう?」
「ええ。俺が悪かった、お前がいないとだめだ、今夜から酒を控えよう、でしょうか」
「素晴らしい答えだ。素晴らしすぎて何か言う気にすらなれんわ」
 足早に男が階段を降りる。そして、地下の廊下に並ぶ扉のうち、1つを開いた。
 そこは、研究所という言葉が似合う部屋だった。薄暗い部屋の中には、テーブルがいくつも置かれており、かろうじて測定器であろうと想像できる機械が何台も並んでいた。ビーカーやフラスコの横にドライバーやハンダごてが並んでいたりと、とても雑然としている。
「準備は?」
「いつでも」
 男は部屋の奥に入った。そこには、四角いガラスの箱がおいてあった。一見すると、電話ボックスのようにも見える。前面のノブを引き、男が中に入った。
「送る場所はいかがいたしましょう」
 壁際にあった操作盤のボタンを押し、メイドが聞く。操作盤についていた数値表示器が起動し、赤い光を発した。
「あいつのおるところは大体わかっておる。今から言う座標を入れろ」
「はい」
 男の指示の通りに、メイドが数値を入れた。そしてボタンを押すと、壁全体から低い地鳴りのような音が響き、ガラスの箱が振動し始めた。
「俺が連絡をしたタイミングで"引き上げ"ろ。そうすれば、問題ないはずだ」
 そう言って、男がガラスの箱の床を足で蹴る。すると、箱はさらに大きく振動し、発光を始めた。
 ごごごごごごご!
 ひときわ大きくガラスの箱が発光した。部屋の中が、まるで閃光手榴弾でも使ったかのように明るくなる。そして。
 光が収まると、ガラスの箱の中にいた男は消えていた。白い湯気が、ふわっと箱から外へ溢れる。
「いってらっしゃいませ」
 誰もいなくなったガラス箱に、メイドがうやうやしく頭を下げた。


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