猫大使様
その16 「猫大使様裏で心配なさる」の巻


 真っ青な空に、ぎらぎらと太陽が照っていた。陽炎揺らめく世界、すべてのものは熱の渦に巻き込まれている。眼下に広がるのは、大きな森。その森の中に、大きな屋敷があった。屋敷の庭では、庭師が植木を刈り込んでいる。その屋敷は、サイズこそ大きいものの、あまりちゃんと手入れはされていないようで全体的に古びた雰囲気を醸し出していた。
「旦那様。お茶が入りました」
 とある部屋で、本を読んでいた男に、1人の女性が声をかけた。男は肌が褐色で、痩せた体に筋肉がついている。髪は白く、短い。女性は肉付きが良く、メイド服を着ており、髪は真っ青で肩口くらいまでで切りそろえている。
「おう、すまぬな」
 ぱたん
 本を閉じた男が、目の前にあった机の上を開ける。机の上には、インク瓶やペン立てなどがところ狭しと置いてある。壁には大きな本棚がいくつも並び、古びた本特有の匂いを発している。窓にかけられたカーテンは分厚く、本を日差しから守るには十分な厚さだ。どうやらここは書斎らしい。
「相変わらずですね。旦那様は、この部屋を私に掃除させてくださらないんですから」
「これが俺にとって仕事のしやすい環境なんだ」
「ふふ。そうでしょうとも」
 メイドはそこにお盆を置いた。カップの湯を金属のコップへ移し、カップにポットから茶を注ぐ。
「また調べ物ですか?」
 横へどけた本を見て、メイドが男に聞いた。
「うむ。まあな」
 本の表紙には、医療なんとかという文字が刻まれている。男はメイドの入れた茶を口に含み、窓の外へと目をやった。
「つくづく、医学というのはよくわからぬ分野だと思う。俺は医者にならなくてよかった」
 その目が、庭師の男を追う。その様子は、どこか物憂げで、そこはかとなく悲しささえ感じさせる。
「あら。本気を出せば、お医者様になれるほど頭が良いでしょうに」
「持ち上げるな。俺はそんなに大層なものではないよ」
 くすりと笑うメイドに、男が苦笑してみせた。
「お前こそ、俺の下で働くより、もっと別のことが出来るのではないか?」
 おそらく、それは冗談だったのだろう。しかし、メイドには冗談に聞こえなかったらしい。楽しげだった彼女の顔が、一瞬にして曇る。
「私には、ここしかないのでございます。どこにも行くところなどありはしません。そう、旦那様のところだけです」
 がたっ
 窓が風を受けて、小さく鳴った。部屋の中に沈黙が満ちる。
「…もしかして、旦那様は、私のことが疎ましくなられたのですか?」
 目の淵に涙を溜め、メイドが男のことをじっと見つめた。
「そうは言っておらん。その、なんだ。お前は頭もいいし、手先も器用だ。メイドという身分では少々もったいないような気がしてな」
 男がメイドの方を向かないようにして言う。
「もったいなくなどありません。私は、旦那様の下にいるのが一番の幸せでございます」
「本当にそうか?俺にはよくわからん。こんな没落した貴族の末裔で、財産を食いつぶし、大したこともしていない男の下にいるのが、本当に…」
「旦那様!」
 男の言葉を遮り、叫ぶメイド。拳をぎゅっと握る。
「自虐的な発言はおよしください。先代が聞いたら、どう思われるか」
 先代という言葉は、少なからず男にダメージを与えたようだ。男が黙りこみ、茶を口に運ぶ。
「…出すぎた発言でした。申し訳ございません」
 メイドがうつむく。そしてまた、沈黙。部屋の中には、時計の音くらいしか存在しない。
「…俺は、お前が人である以上に人らしいと思っている。なぜ"悪魔"は皆、お前のようではないのだろうな」
 立ち上がった男が、医療の本を本棚に戻した。そしてまた別の本を手に取る。表紙には、悪魔という文字が見えた。
「狼も生まれた時から人と過ごせば犬となります。私もそう。生まれてからずっと、先代の下で育ってきました。私は人ではありませぬが、先代の教えてくださった全てを受け継ぎ、人として生きることが出来るようになりました」
 メイドの右手が、そっと胸に添えられる。不自然にまで白い肌、頬にほんのりと紅が挿した。
「私は、感謝しております。先代に、そして旦那様に。私は、旦那様のしもべとして…」
 そこまで言って、メイドが言葉を切った。男が、怪訝そうな顔をしていたからだろう。
「旦那様?」
「ん?ああ、いや、すまん。かように慎み深い言葉を聞いたのは久しぶりじゃと思ってな」
 くすくすと男が笑った。
「俺を壁に叩きつけることもなければ、部屋を散らかすこともない。料理もちゃんとして、間違っても宅配ピザを頼むようなこともない。挙句、顔から火が出そうな言葉をさらりと言ってのける。女というのは、よくわからんものだ」
 そこまで聞いて、メイドは男が誰のことを言っているのか、ピンと来たらしい。
「またその人の話をするのですね」
 しかめ面で、メイドが男に詰め寄った。
「すまんすまん。許しておくれ」
「いいえ、許しません。私は女であると同時に悪魔です。悪魔は嫉妬深いものなのですよ」
「はは、お前は人間だよ。生物学的にどうあろうと、な」
 再度、男が窓の外を見た。庭師が休憩をとっている。もう昼過ぎだ、日はゆっくりと傾き始めている。
「…あいつは、今頃どうしているんだろうか」
 ぽつりと男がつぶやいた。


「うっさんくさーい」
「バカ言うない!胡散臭くなんかない!」
 とある雑居ビルの3階。とても狭く、色々なものが押し込められている薄暗い店内に、私は立っていた。骨董品、おもちゃ、ナイフ、缶詰、果ては壊れかけた電化製品まで。リサイクルショップのような品揃えだ。
 私の名前は羽道晴美。イラストレーター見習いのややフリーターが入っている女だ。やや伸びかかった黒髪は背中に少しかかるくらい、最近は忙しく肌の手入れもあまりできてないので化粧でごまかしている。
「大使の紹介だから話してやってるんだ。そうでなければ、こんな貴重なもん、渡せるわけないだろう」
 目の前のカウンターに座る、ねずみみたいな顔をした中年男が、甲高い声で私に言った。背もあまり高くない、目も釣り上がり気味であまり人相も良いわけではない男だ。鶏がら、という言葉が似合うぐらいに痩せている。こいつのことは、以降ねずみ男と呼ぶことにしよう。
「でもさー、それってマジなの?」
「マジだよ!ったく、これだから若い娘は嫌いなんだよ!」
 疑いの目を向ける私に、男がぷんすか怒る。
 この店に来たのはほかでもない、猫大使が荷物を受け取ってきてくれと電話で頼んできたからだ。猫大使というのは、つい数日前まで私の家に居候していた、白い猫のことだ。冥界とかいう世界の大使で、現世に仕事で来ていたらしい。
「ともかく。これ、ジャンガンの結晶。頼まれてたもんだよ」
 ねずみ男が差し出したのは、白い石だった。塩の結晶みたいな色をしていて、大きさはゴルフボールぐらいだ。
「これにその、浄化作用があるんだっけ?」
「あぁ、あるよ。でも、使い方間違えると消し飛んじゃうからね。いいかい、くれぐれも先走ってその子に使わずに、まず大使に持ってくんだよ!」
「言われなくてもわかってるって!信用してないんだから!」
 ねずみ男の強い言いように、私が今度はぷんすかした。
 その子、というのは誰か。それは冥界人の少年で、名をジュエフと言う。金色のさらさらヘアーをもった色白の美少年で、ひょんなことから私の家に住むことになった。
 このジュエフ、実は今、霊的な病気にかかっているという話らしい。霊的な、というところに胡散臭さを感じてしまうが、本当だから仕方ない。なんでも、魂が2つ入ってるとか、片方は悪魔だとか…よくわからない。この石をうまく使うと、その悪魔を追い払えるのだとかなんとか。さっぱりわからない。
「ジャンガンとか言われても、ただの塩じゃん」
 思ったことがぽつりと出る。と。
「ちーがーうー!」
 がたん!
 ねずみ男が立ち上がった。この男、立ち上がっても背が低い。
「そいつは霊験あらたかな石なんだよ!要石って知ってるだろ!あの中にもそのジャンガンが含まれてるんだ!それによって…」
「わかったわかった」
「わかってないだろ!こいつ!ふざけんな!」
 なんと面倒くさい男だろうか。今日だって忙しいところをわざわざこんなところに来ているのも、ジュエフの病気が治るとの期待があるからのことだ。それが蓋を開けば、こんなものだとは。
「ともかく、ありがとうね。これ持って大使のところに行くから」
 そういって店を出ようとしたそのときだった。
「ちょっと待って!あんた、お代も払わずに出ていこうと出ていこうとしてるのか?」
 ずずい、とねずみ男がカウンターから身を乗り出した。
「え?大使から話が来てるんじゃないの?」
 くるりと、私は振り返る。
「お金はもらってないんだよ!そいつを仕入れるのに、うちがどれだけ苦労したか!」
 がたっ!
 カウンターから飛び出したねずみ男は、私のスカートをひっつかんだ。
「わーかったわかった!払うから!で、いくらなの?」
 よそ行き用の高いスカートなのだ、そんな汚い手で触られたくはない。ねずみ男の手をひっペがした私が、財布を出す。
「これだけだ。クレジットカードは使えないからな」
「はいはい…え?」
 差し出した電卓に表示されている数字を見た私は、目を丸くした。ゼロの数がおかしいんじゃないのか、と思って数えなおしたが、変わらない。なんだ、この金額は。
「高ッ!」
「当たり前だろ!何も知らないのか!」
 叫んだ私に、ねずみ男が噛み付いた。実際に噛み付いたわけではなく、言葉でだ。
「ちょ、そんな払えるわけないじゃない。そんな、冗談でしょ?」
 思わず石を見つめる。どう考えてもこの塩みたいな塊が、高いとは思えない。
「冗談じゃないよ。だめならあんた、帰ってもらうしかないね」
 眉を釣り上げたまま、ねずみ男は吐き捨てるように言った。その手が、私の手から石をひったくる。
「それがないと病気の子が救えないの。ねえ、お願い。助けてよ」
「だめだめ、うちだって慈善事業でやってるんじゃないんだ。金を作ってからまた来てくれ」
「大使の知り合いなんでしょ?ちゃんとお金は払ってもらうから」
「うちは現金払いオンリーの店なんだ。振込、代引、クレジットカードやギフト券はお断りだよ」
 なんと融通の効かない男なのだろうか、と私は腹が立ってきた。こっちはこれだけ頼んでいるのだ、少しくらい話を聞いてくれてもいいんじゃないか、などという考えがよぎる。
「あんたねえ!もっと…」
 ピピピピピ
「うおっ」
 私が叫ぶのと、私の懐で携帯電話が鳴ったのは同時だった。携帯には猫大使と表示されている。
「もしもし?」
『晴美か。無事、品は手に入ったか?』
 やはり高い声ではなく、低い声だ。声変わりでもしたのだろうかあの猫は。
「残念ながら。店の主人は、お金が無いと品を譲ってくれないと言っております」
 ちらっとねずみ男を見ると、それが当然だとでも言いたげな顔をしていた。当然といえば当然なのだが、私としてはどうも納得がいかないのである。
『おい、電話を代わってくれ。俺が交渉してみる』
「なんであんた、一人称が俺なのよ。ワシって言ってなかったっけ」
『…昨日電話した時もそんなこと言っておったな。そんなことは重要でないと言うに。いいから代われ』
 そう言われては代わるしかない。私は電話をねずみ男に渡した。
「もしもし?大使さん、困るよ。金もないのに」
 ねずみ男は大使相手にも態度を変えることがなかった。これでいきなりぺこぺこし始めたらそれはそれで面白かったのだが、そんなことはない様子だ。暇になった私は、店内をうろうろと見回っていた。
「そりゃーわかるけどねー!大使さんだっていくらなんでも…」
 ねずみ男はかなりヒートアップしているようだが、私はとりあえず自分から矛先が逸れたので、知らん顔をしていた。店に置いてあるものはうさんくさいものばっかりで、どれもこれも買おうとは思えない。魔法のランプだとか、真実の鏡だとか、近松門左衛門の箸だとか。わけがわからない。
「しょうがないな、全く!わかったよ、わかりましたよ!じゃあね!」
 電話が終わったらしい。男は服の袖で電話の口を拭くと、私にぶっきらぼうに差し出した。
「石、もってけよ。後で大使さんが来て、金払ってくれるって。ただ、高すぎるからレンタルにしてくれないかって」
「えー?大使ってお金持ちじゃないの?」
「知らないよ!俺に言うんじゃない!くそっ、今日は厄日だな」
 ねずみ男の手から石を受け取り、私はそれをポケットに入れた。確かに高いといえば高いのだ、レンタルにしたい気持ちもわからないでもない。借り物だから気をつけて運送せねばなるまい。
「じゃあ、えーと、ありがとう。帰るよ」
「ああ、はいはい。まいどあり」
 出口へと向かう私に、ねずみ男が軽く手を振った。愛想のかけらもないらしい。外へ出ると、昼の日差しが私のことを包んだ。埃っぽくて暗い店内とは大違いだ。
「で、これを持ってどこにいけばいいのよ…」
 石を受け取った後のことを、私は大使から聞いていない。今の電話でその指示をするつもりだったのかも知れないが、既に切れてしまった。再度かけなおすしかないだろうかと、携帯電話を出す。
「あれ?」
 電波が圏外になっている。店内では電波が届いて、外に出たら圏外になるなんてこと、あるのだろうか。普通は逆だと思うのだが。まあ、帰ってから電話をしなおせばいいのだろう。そうと決まれば、途中でコンビニにでも寄って、家に帰ろう。そうして階段をおろる。
「…え?」
 階段の踊場に、「彼」は立っていた。着ているのは、なんという名前かは知らないが、病院の患者が着るような薄い服だ。
「…どうも、羽道さん。探しましたよ」
 彼…ジュエフは、私の名を呼んだ。いつもと変わらない、どこか卑屈な笑顔を浮かべて。


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