猫大使様
その15 「猫大使様お願いなさる」の巻


 まだ小学生のころ。冬に家に帰ると、母がココアを作ってくれるのが、とても好きだった。
 ミルクを温めて、ココアの粉を入れる。まずコップに粉を入れ、少しだけミルクを入れて、よく混ぜる。すると、チョコレートの溶けかけたようなものになるので、そこからコップの縁までミルクを入れる。
 私が作っても、同じようにはならない。例えば、ココアの粉が玉になって残ってしまったりする。母が作るココアだから美味しいのだ。
 友達が来た時も、母は同じようにココアを作ってくれた。それが嬉しかったのを、覚えている。
 今はもう戻れない、昔の思い出。甘くて、懐かしくて、泣きそうになる、そんな思い出……。

「……はっ」
 何か、とても懐かしい夢を見ていた気がする。目を開けると、そこは自分のアパートだった。体がずんと重く、起き上がれる気がしない。いつの間にか私はベッドに寝かされている。
「え……」
 どうしてこうなっているか、よく理解出来ない。まだ意識が覚醒しきっていないようだ。まぶたが重い。このまま、2度寝してしまえそうなほどに……。
「目が覚めましたか、羽道さん」
 隣から、女性の声がする。そうだ、私の名前は羽道晴美。アパート住まいの、どこにでもいそうな普通の女、のはずだ。今の声は確か、氷室アカネという女性の声のはずだ。
「ジュエフはしかるべき施設へと移動しました。安心してください」
 アカネの声が呼んだ名に、私の意識は反応し、急速に覚醒し始めた。そうだ、ジュエフだ。金髪で、さらさらの髪をしている、「冥界人」の少年。私と共に暮す少年。彼のことを思い出した私は、眠たいのを我慢して、上半身を起こした。
「ジュエフは、どうなったんですか?」
 カーペットに座り、携帯電話をいじっているアカネに向かって問いかける。痩せ型で長身、三角形のメガネをかけたアカネは、ちらりとこちらを見た。
「それについて、今カネオとメールをしているところです。先ほどの話では、こちらの病院に入ったとのことです」
「病院?だって、病院に行っても治らない病気だって…」
「一般の病院ならば、の話です。ところで、もう気分は大丈夫ですか?」
 その言葉に、また心の中に怒りが湧くのを感じる。さっきまでの流れを思い出したのだ。
 まず昨日。封筒に入った粉が我が家へとやってきた。幼なじみの野池小太郎という男が持ってきたそれを、ジュエフは指で触り、なぜか熱が上がって止まらなくなったのだ。
 そして今日、夕方。アカネともう1人、でっぷりと太ったカネオという中年男が部屋にやってきて、あろうことかジュエフにその白い粉と同じ物を振りかけた。ジュエフは痙攣し苦しみ、私はそれをやめさせようとしたが、アカネの拳で殴られて気絶した…という寸法だ。
「そうだ。あんた、私のことを殴ったけど、それって何か意味あるの?」
 ますます腹が立ってきた私は、床に足を下ろし、アカネを睨みつけた。もう敬語も使っていられない。
「必要なことだったのです。ごめんなさい」
 ごめんなさい、なんて言いながら、この女の顔には反省の色など見られないのだ。いつも無表情なのは知っていたが、こんなときまで無表情だとは。ここで罵声を浴びせるのは簡単だが、それでは解決にならない。怒りをぐぐぐと押し込めた私は、深呼吸した。
「…理由ぐらい聞かせてもらえるんでしょうね」
「ええ。もちろんです」
 ぱたん
 携帯電話を閉じ、アカネが顔を上げた。
「今のジュエフの状況はご存知ですか?」
「ええ、もちろん。熱出してうなされて、しきりにお母さんのことを呼んでたわよ。それが?」
「まずここで確認をしておきましょうか」
 そう言って、彼女が取り出したのは、手帳だった。白紙のページを開いた彼女は、その中央に「ジュエフ」と書いた。その字はワープロで打ったみたいに綺麗で、彼女に外見で勝てないと思っている私に更なる劣等感を抱かせた。
「まず、ジュエフの状況です。彼は、冥界の孤児院から家出をして、危険地帯を経由してこっちに来ている、というのが基本事項。そして、危険地帯では、悪魔によって傷を負わされています。さらに、彼にはここ2年以内の記憶しかありません。今は、謎の高熱が出ており、病院に入っています」
 ジュエフの下に、記憶喪失や高熱といったキーワードが書き込まれる。
「彼はうわ言で、母のことを呼びました。しかし、2年前からずっと孤児院ぐらしで、母に会っていません」
「うん。だから、お母さんのことを呼ぶのはおかしい、ということ…だよね?」
「そうなります。矛盾がここで1つ出ます」
 アカネは冷静に話を続ける。そんな話は私にとってはどうでもいいのだ。今どうなっているのか、なぜ私は殴られたのか、そこの結論を聞きたい。一度は収まりかけたいらいらが、また募ってくるのがわかる。
「…結論から言いましょう。ジュエフは霊的な病気です。病名は、寄生性生命腫瘍」
「へ?」
 霊的な病気、という時点で私は驚いてしまった。さらに、聞いたこともないような病名が出て、私は二重に驚いてしまった。
「簡単にいえば、ジュエフの霊体にもう1つの霊体がくっついていて、それが意思を持っている可能性があるということです」
 全然簡単に言っていないと思ってしまう。
「えーと、それって要するに、、ジュエフの中に人格がもう1つあるとか?」
「人格というのは正確ではありません。ジュエフの中に、もう1人分の魂が、半端な癒着しているのです」
「なにそれ。っていうか、魂とか霊体とか、そういう話がまずわかんないんだけど」
 私がしかめ面をしているのを見て、アカネが手帳の隣のページにペンをやった。
「まず。人間の体というのは、物質的にはタンパク質やカルシウムの塊です。生きている人間と死んでいる死体を分ける線引きというのは、身体の生命活動や意思にほかなりません」
 人間の形を描いたアカネは、その中にハートマークを入れた。
「人間の体を動かすのは電気信号です。それを出すために必要なのが霊体、いわゆる魂だと言えます。魂とは、意思を形作り肉体動作を作るために必要なものであり、肉体を利用しそれを…」
「だから、わかんないって。そんなずらずら言われても」
「…」
 話の途中に割り込まれて、アカネは少し困ったようで、額に手を当てる。
「私には説明が難しいようです。何はともあれ、ジュエフは今、1人の体に2人分の命があると思ってください」
 アカネがハートマークをもう一つ、人間の中に描き足す。
「よくわかんないけど…わかった。で、それがどう問題なのさ?」
 二重人格と何が違うというのか。そして、それの何が問題なのか。命が2つあるということは、死にかけても復活できるということでは?そう考えると心強いような気もするのだが。
「普通は、肉体1つに魂1つです。ジュエフの状態は明らかに異常なのです。何が起きるかわかりません。このまま放置はしておけません」
 いまいち、事の重大性というのがわからないが、病気なのだということまでは理解できた。
「白い粉を浴び苦しんでいたのが寄生体だと思われます。あれはジュエフ本人ではありませんが、ジュエフ本人とも言えます。脳に蓄積されている記憶などは、その寄生体も引き出すことが可能ですから」
「私は知らないうちに、その寄生体とやらと話をしていたかも知れないんだね」
「ええ。そしてその寄生体ですが…どうも…」
 アカネが言葉を濁す。
「どうも、悪魔に近いもののようなのです」
 はぁ? と私が口から漏らした。悪魔というと、あの悪魔だろうか。
「実はその、悪魔というのが、よくわかってなかったんだけど…」
「今まで何度か話に出たでしょう?」
「えーと、よく理解しないままきたというか…」
 思わず目をそらす。アカネは小さくため息をついた。
「そうですね…悪魔というのは、現世にはいない、知能を持つ生命体です。魔力を持ち、特有の能力等のある者たちでして、文明を築いている場合もあります」
 こちらの世界で言えば、未開の地に住む民族などになるんだろうか。大体、想像している通りの生き物だと考えてよさそうだ。
「じゃあ、ジュエフが冥界の割れ目だかなんだかに迷い込んだ時、ジュエフの中に寄生したわけ?」
「わかりません。それも含めて、今は検査を行なっております」
「で、それとあの白い粉と何か関係が?寄生体が苦しんでいたっていうけど、なんでよ」
「あの粉は、悪魔が一般的に嫌うとされているものです。よくフィクションで、除霊や浄化と言う概念がありますが、あれに近いことが行えると考えてください」
 なるほど。つまり、ジュエフの中の悪魔が、あの粉で苦しんだということだろうか。
「先ほど羽道さんを気絶させたのは、悪魔の影響で羽道さんが精神をやられている恐れがあったからです。念のため、気を失っている間に浄化させていただきました」
「あるわけないと思うけど…」
「万が一、です。先ほどの羽道さんは、やや錯乱しているように見受けられましたので」
 苦しんでいる子供を守りたいと思うのは、当然だと思うのだが。誤解されるような行動を取った私が悪いのだろうか。
『いや…絶対悪くないもんね』
 口には出さないけど、私はそう考えた。殴るほうが悪い。
「今、カネオはジュエフに付き添って病院に行っています。ここで出来る処置は行ったので、現在は精密な検査をしているところです。私もそちらの病院へ向かいます」
 立ち上がったアカネは、ポケットに携帯電話を入れた。手帳はハンドバッグ行きだ。
「あ、待って。私も…」
「それには及びません」
 立ち上がろうとした私を一瞥した後、アカネが目をそらす。
「ジュエフのことが心配なのはわかりますが、今はおとなしくしていてください。何かありましたら、こちらから連絡いたします」
「でも、私だってジュエフが心配で…」
「羽道さん」
 私を見つめるアカネの目は、とても冷たかった。背筋がぞくっとする。
「申し訳ありませんが、聞き分けてください。今、あなたが出来ることは何もありません」
 何も言い返せなかった。恐怖すら感じてしまった。黙りこんだ私を見て、アカネは小さくため息をつくと、踵を返して玄関へ向かった。
「何かあったらご連絡ください。テーブルの上に、名刺を置いておきました」
 そこで私は、テーブルの上に四角い紙が置かれていることに、初めて気がついた。名刺はカネオのもので、電話番号とメールアドレスが書かれている。
「あ…」
「それでは失礼します」
 ばたん
 何か言う間もなく、アカネは出ていってしまった。これで、この部屋にいるのは私だけになってしまった。1ヶ月半以上前にはこれが当たり前だった。それが、いつの間にか猫大使が来て、ジュエフが来て。誰かが家にいるのが、逆に当たり前になりつつあった。心の端っこから、じわじわと寂しさが染み出してきて、涙が出そうになる。
 ピピピピピピピ
「うおっ」
 いきなり、私の携帯電話が音を鳴らした。いつもはマナーモードにしているのに、今日に限って解除されていたようだ。携帯を開くと、着信という文字と共に、知らない電話番号が表示されていた。通販でも頼んでいただろうか。
 ピッ
「もしもし」
『晴美か?』
 向こうから聞こえてきたのは、やや低めの男声だった。風の音も一緒にこちらへ入ってきている。相手は屋外で電話をかけているらしい。
「えーと、どちら様ですか?」
 聞いたことのない声に、私は警戒の色を強めた。
『どちら様はないだろう。お前…』
「あの、私は確かに晴美ですが、おかけ間違いでは?」
『何を言うか。羽道晴美だろう。間違えるはずがないだろう』
 一瞬、マーロンかとも思ったが、これは彼の声ではない。それでこんなにフランクに話しかけてくる異性なんて、父くらいしか心当たりが…
『いや』
 もしかして、これは。
「大使?」
『そうだ。お前、電話番号でわからなかったのか?』
 相手は猫大使だ。いつもの、鈴のようなきれいな声ではない。
「だって、電話番号を登録させてくれなかったじゃん。知らない番号だし」
『そうだったか?まあ、いい。今はそんなことは重要ではない』
 ごほん、と電話の向こうで大使が咳をした。そうだ、重要なことを伝えなければ。
「あのね、ジュエフが大変なの。病気を…」
『その話なら聞いておる。マーロンが来て、伝えてくれた。やはりな、もしかしてとは思ったのだが…』
「何それ、感づいてたってこと?なんで何も言わないのよ」
 頭に血が上る。全く、どいつもこいつも。何か思惑があるのかも知れないが、まずは心配させないように一言あるのが当たり前ではないだろうか。仮にも同居人であるのだから。
『対処をするためにこちらへ戻ってきたのだ。俺には俺の考えがあるのだ』
「せめて一言…え?」
 今こいつ、俺と言ったような気がする。猫大使はいつも、自分のことを「ワシ」と呼んでいたはずだ。
「あんた、ほんとに大使?」
 不安になった私が聞き直す。ジュエフの身に宿る悪魔の仲間かも知れない、油断はできない。
『当たり前じゃ。何をそんなに疑っておる』
「だって声が違うし…」
『そんなことは重要ではないと言うておるに。いいか、よく聞け』
 電話口の向こうで、大使が怒りの声をあげた。
『今、ジュエフの病気をなんとかしようと行動しておるが、手が足りんのだ。今回の案件について、他の人間に知られるとやっかいなことになるやもしれん。お前の力を借りたい』
「借りたいってなによ」
 自分でも機嫌の悪さを隠そうともしない声だということがよくわかる。
『今から言う住所に向かってくれ。そこで、荷物を受け取ってほしい。その後また指示をする』
「いつまで?」
『今日明日中だ。先方に話はしてある。頼めないか』
 いきなり電話をしてきて、それは都合がよすぎるんじゃないか、と嫌味の言いたくなった私だったが、そこは我慢する。電話口でケンカをしたところで、しょうがないからだ。
「もし断ったらどうする?私、イラストの仕事も来てるし、忙しいんだよね」
 断ったらジュエフが大変だということもわかってるし、大使は私しか頼れないからこそ電話をしてきたというのもわかる。だが、理屈じゃなく納得いかない。だから、こんな質問をした。電話の向こうの大使は、しばらく黙りこんで…
『断るはずがない。お前は、羽道晴美だからな』
 と、きっぱりと言ってのけたのだった。


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