猫大使様
その14 「猫大使様困ったことになりなさる」の巻


 しゅんしゅんしゅんしゅん
 台所のコンロで、やかんが湯気を噴き出している。6畳1間のこの部屋は、やかんが出した蒸気のおかげで、冬にも関わらず少しは暖かく、そして潤っていた。見ようによってはコミカルに見えるやかんの姿だが、今の私はそんなことに頓着しているほど明るい気分ではなかった。
「うう…」
 ベッドに寝ている金髪の少年の額を、タオルで拭う。少年はこの寒いのに汗びっしょりで、だいぶ熱もあるようだ。カーテンの隙間から入る夕日に、少年の顔の汗がきらきら輝いて見える。
「うみち、さん。ごめんなさい…」
 少年がうっすらと目を開け、私の名を呼ぶ。
「いいの、気にしないで。何か欲しいものはある?」
「いえ…大丈夫、です…」
「そう…辛くなったらすぐ言ってね?」
 私はタオルを置き、少年を安心させようと、微笑みかけた。私の名は羽道晴美。イラストレーター見習い兼アルバイターだ。そしてこの少年はジュエフ。冥界から来たとかいう迷子で、今は私のところで生活をしている。
「しかし、困ったねえ。大使はいつになったら帰ってくるんだろう」
 ノートパソコンに向き直り、私が独り言を呟いた。大使というのは、この部屋に住むもう1人の同居人のことだ。正確には、同居猫か。猫大使と言い、冥界の大使なのだという。つい3日前に用事があると言って出ていって、戻ってきていない。
 ジュエフは別に風邪を引いているわけではない。昨日、私の幼なじみの野池小太郎という男がやってきて、1通の封筒を私に渡したのだ。彼はピザ屋に勤めており、その封筒はピザ屋の客が、私を名指しして渡してくれと言って置いていったものだという。封筒の中には、白い粉が入っており、それを触ったジュエフが熱を出して寝込んでしまったのだ。今はもうその粉は捨ててしまって手元にはない。
「たいしさん、帰ってくる、んでしょうか…」
 うめき声にも似た声で、ジュエフが言った。
「帰ってくるに決まってるじゃない。どうしたの」
「いえ…なんか、もう帰ってこないような、気がして…」
 まさかそんな、とジュエフのことを笑おうとした私だったが、上手く笑えなかった。そう言われると、まさか…という気になってしまう。
「全くもう、やめてよね〜、あっはっは」
 ジュエフを安心させようと、私はわざと明るく笑ってみせた。だけど、そんなものではジュエフは納得しない様子だった。
「向こうで何かあったら、大使さん、向こうにいないと、いけなくなっちゃう。後から、もう戻れなくなったとか、メールが、来るかも…」
 そんなはずない。そう言いたい。でも、言えなかった。
「メール、見てみようか。大使から何か来てるかもしれないし」
 ノートパソコンを起動した私は、メールをチェックし始めた。新着、ゼロ。新しいメールなどない。メールボックスには、様々なメールに混ざって、猫大使の送ってきたメールが入っている。冥界の言葉だという、よくわからない文字のメールだ。
「大使に返信打とうか。こういうときどうすればいいか、教えてくれるかも」
「向こうで日本語が読めるんでしょうか…」
「あ」
 確かにその通りである。わざわざ冥界の文字を使ったメールを送ってきたということは、日本語でメールを書けない環境だったのかもしれない。
「困ったなー。解熱剤も風邪薬も効かなかったし、ただの風邪でないことは確かなんだよね」
 大きく伸びをした私は、コタツに体を入れ、ため息をついた。
「カネオさんに聞くべきかなあ。それより、お医者に行く方がいいのかな…」
 昨日の今日だ、まだ医者にも行っていない。昼にはアルバイトがあって、ついさっき帰ってきたばかりなので、彼をどこかへ連れていくことはできていない。
「とりあえずお医者だよね。えーと、まだやってるところは…」
 インターネットを使い、医院の位置を調べる。この周辺には、個人経営の診療所はあっても、病院がない。この時間では、小さな医院はほとんど診察を終了してしまっている。3駅隣に行けば総合病院があるが、ジュエフの体力がそこまでもつとは思えない。もしジュエフが倒れた時、私1人では力が弱くて、抱き起こすことが出来るかどうかすら怪しい。
「総合病院ならやってるね。タクシー、かなあ。カネオさんにもらったお金があるから…」
 ピンポーン
「あ?」
 いきなり、チャイムの音が響いた。こんなときに、誰が来たのだろうか。軽く髪を整えた私は、玄関へ向かった。
 がちゃ
「羽道はん、いきなりの訪問、えろうすいまへんなあ」
「あ!」
 そこに立っていたのは、でっぷりと太って人好きのする笑顔を振りまいているおっさんと、背がやや高く細身で三角形のメガネをかけている女性の2人組だった。男の方はカネオ、女性の方は氷室アカネ。猫大使の関係で知り合った、日本在住で、冥界人の輸入雑貨商と、その秘書である。
「今、お時間はありますか?」
 メガネを上げ、アカネが私に聞いた。この人は美人だが、いつも冷たい感じがするので、どうも苦手だ。
「えーと、あの。出来れば、また今度に…」
 部屋の中を振り返る私。ジュエフが、げほげほと咳をした。
「いや、あんな。もしかして、と思うねんけど、ジュエフ、病気をしとりませんか?」
「え、ええ。これからお医者さんに連れていこうかと…」
「いえ、医者に連れていっても、治らん病ですわ。わてらは、そのことで来たんです。上がってよろしいか?」
 カネオがアカネをちらりと見る。アカネはうなずいて、手に持っていたカバンを見せた。カバンの中で、ガラスのぶつかる音がした。この2人も冥界人だ、きっと私の知らない何かを知っているに違いない。
「ええと…よろしくお願いします」
 そういって、私は部屋へと戻った。


「ここは?」
「なんともないです…」
「じゃあ、こうすると?」
「うっ…い、痛いです」
 アカネが、うつぶせのジュエフの背中に手をやり、触診をしている。その横で、コタツに入った私とカネオは、向い合って紅茶を飲んでいた。
「…そうでしたか。その粉のせいで、ジュエフが病気に」
「ええ。粉を触ったとたんに、ジュエフが苦しみだしたんです」
 すべてを聞いたカネオは、うーんと唸った。
「もう捨ててしもうて、ここにはあらへんのですよね?」
「今朝の回収に出しました」
「そうでっか…」
 今思えば、粉を取っておいて、カネオに見てもらうというのも手だったかもしれない。だがもう後の祭りである。今頃、焼却場で焼かれていることだろう。
「ううっ」
「我慢です」
 唸るジュエフに、アカネが強めの声で言った。
「その粉を持ってきたのが、マーロン君やもしれんっちゅう話でしたなあ」
 こほん、と小さく咳をするカネオ。マーロンというのは、猫大使の世話をすることになっていた男だ。痩せていて、揃えた黒髪、そしてメガネをかけている。私相手には冷たい態度をとるが、猫大使相手にはとてもデレデレの顔を見せる。
「実物を見てへんので、確たることは言えまへんが…おそらく、マーロン君が持ってきてるもんやったら、うちらの思っとるもんと同じですわ。毒物や細菌の類とは違います」
「じゃあ、なんなんですか?」
「なんちゅうんかな…そうですなあ。むつかしいな」
 カネオがアカネの方に目をやる。アカネは小さく頷き、カバンの中からビニールの袋を取り出した。その中には、昨日見たのと同じ粉が、半分ほど入っていた。
「あ、それ…昨日見た粉と似てます」
「そうでしょうな。おそらく、おんなじもんや」
「え?」
 同じ物?と私が聞く間も無く、その粉を指で摘んだアカネは、ジュエフの手の甲にそれを薄く塗った。
「う、う、うああああ!」
 びくん!
「あ!」
 ジュエフの体が大きく跳ねる。
「あ、こらあかんわ!」
 慌てて立ち上がったカネオが、ジュエフの体を押さえた。
「あ、あんた達、なんの恨みがあってこんなことを!」
 すっかり頭に血が昇ってしまった私も立ち上がる。コタツが揺れ、カップから跳ねた飛沫がこぼれた。
「これは治療です。羽道さん、落ち着いて」
「苦しめておいて治療だなんて!」
 アカネの言葉に、私が更に怒りを積もらせる。ジュエフは昨日、この粉のせいでこうなったのだ。こいつは話を聞いていなかったのだろうか。
「羽道さん、よう聞いてください。ジュエフは今、大変危険な状態にあるんですわ。今ここで対策せんと、後からのっぴきならんことになるんです」
 痙攣が収まったジュエフの腕を離し、カネオが真面目な顔をした。素早くアカネがジュエフの脈を測る。
「こないだの健康診断の結果、ご覧になりましたでしょう?ジュエフの体には、霊的にダメージがおりまんねや。最初はただのよくあるもんかと思っとったねんけど、実はちゃいまして…」
「そんな事言われても、私、よくわからないんです。霊とか魂とか、オカルトじみてませんか?」
「いやいやいや、これ、ほんまの話でして…」
 カネオは私の怒りようを見て、すっかり萎縮してしまったようで、困った顔をしながら額の汗を拭った。
「かぁ、さまぁ…」
 ぎゅうっと閉じた目尻から涙を流し、ジュエフがつぶやいた。
「ほら、見て!ジュエフがお母さんを呼んで、苦しがって…」
「羽道さん!」
 大きな声で、アカネが私の名を呼んだ。私は思わずたじろいで、言葉を止める。
「よう、考えておくんなはれ」
 そう言うカネオの顔は、どこまでも真面目なものだった。いつもの優しい表情ではない。
「大使から聞いておるんですが…ジュエフは、2年より前の記憶がないという話でっしゃろ。おかしいと思いまへんか?なんで2年前のことを覚えてない子が、母のことを覚えておるんです?」
「あ…」
 そう言われてみればそうだ。確かにジュエフは、2年より前のことを覚えていないと言っていた。
「で、でも。私がこの子と一緒に寝始めた時、この子、言ったんですよ。母様の匂いがするって…」
「そんとき羽道はんは、ジュエフの記憶が2年内しかないことを知っておったんですか?」
「いえ…そのときはまだ、彼からそう聞いていなかったので…」
 少しずつ、違和感が私の中に浮き上がってきた。確かにおかしい。この子の言う「母様」とは誰なのだろうか。
「苦しいよう、母様…」
 ジュエフは夢遊病患者のように、手を虚空に向かって伸ばした。私はその手を握りしめた。吐息には熱が含まれているのに、その手はまるで氷のように冷たかった。
「ジュエフ、大丈夫?苦しい?」
「かあ、さまあ…」
 ぎゅっと、ジュエフが手を握り返してきた。その力はあまりにもか弱い。
「ここまで拒絶反応が出るとは思いませんでしたね。続行しますか?」
「続けるより他、ないやろう。このままほっとくわけにもいかへん」
「わかりました」
 アカネの顔に、困惑の色が見えた。いつも無表情な彼女が、こんな顔をしたのを見るのは、初めてだ。粉を少し手に取り、今度はジュエフの首元に振りかけた。
「う、うあ、あああ、あああああ!」
 今にも絶命するのではないかと言うくらいに、ジュエフが叫んだ。またカネオが押さえる。もう限界だ、こんな辛そうなジュエフ、見ていられない。
「もう、やめてください!」
 私はアカネの手から粉の入った袋を奪い取り、床に叩きつけた。これ以上ジュエフをやらせてなるものか。このままでは、この子は死んでしまうかもしれないのだ。
「あー…これ、やられとるかもしらんなあ。おい」
「はい」
 立ち上がったアカネが、私の顔を覗き込んだ。そして、右手を握る。と、同時に。
 ぼぐっ!
「うっ!?」
 私の意識は、暗闇の中に吸い込まれた。


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