猫大使様
その13 「猫大使様ご帰宅なさらない」の巻

「いいか、用があったからお前を呼んだだけだ。その辺りを勘違いしないでもらおうか」
 真っ昼間の喫茶店。私の向かい側に座る、メガネをかけて細身で、髪をきっちりと整えているスーツの男は、腕を組みふんぞり返りながら私に言った。
「勘違いのしようがないし」
 対する私は、最近切ったミドルヘアーを肩の方に払いながら、機嫌の悪い顔をしてみせた。スーツ姿のこいつと違って、私は普段着だ。おしゃれ着でもなければ正装でもない。
 私は羽道晴美。イラストレーターの端くれであり、フリーターをしている、何の変哲もない女だ。猫の姿をした冥界大使、猫大使と、金髪で線の細い冥界人の少年、ジュエフと共に、6畳のアパートで生活をしている。
 向かいに座っているこの偉そうな男は、マーロン・八芭。現世にやってきている猫大使を世話するべく派遣されてきている男だが、猫大使はこの男のことが大嫌いで、逃げ隠れしている。それもそのはず、この男は私には微笑みのほの字すら見せないが、猫大使相手にはまるで人工甘味料を煮詰めたような甘い甘い言葉を吐くのだ。気持ちが悪いとしか言いようがない。
「で、今日私を呼びだした理由は何さ。どうせ猫大使関連でしょ」
 自分の前に置かれたコーヒーを飲みながら、私がマーロンに聞いた。来たばかりではあるが、出来ればもう帰りたい。皿洗いをして、夕食の準備をしたいのだ。今日は野菜をたっぷり入れたカレーにするつもりだし、カレーは早めに作って寝かせておかねば美味しくならない。出来れば、食べるころの時間には少し冷めかけてるくらいにしておきたいのだが。
「大使の関連と言えば大使の関連だが、お前にも十二分に関係のある話だ」
「何それ。私に関係ある話?」
「そうだ。ジュエフの話だからな」
 偉そうな態度を崩さず、マーロンがぐいとコーヒーを飲む。
「なんであんたがジュエフの話を始めるのさ」
 こいつとジュエフは、直接の関係はなかったはずだ、と私は思っていた。初対面の、無理矢理家に上がり込んできたときに、少し話をしたぐらいではなかっただろうか。
「俺は大使の世話役兼秘書になるはずだった男だぞ。大使の今抱えている案件について、こちらにも情報が来るようになっている。秘書だと偽ってのほほんとしている洟垂れ娘とは違うんだよ」
 ふふん、とマーロンは鼻を鳴らした。
「それってもしかして、あんたもカネオさんと会ってるってこと?」
 私の問いに、マーロンが頷く。カネオというのは、猫大使と仕事上でよく話をする、トドのような外見のおっさんだ。冥界の、大使と違う国に住んでいる商人だという話で、私は彼と何度か会ったことがある。
「あんた、カネオさんに私が秘書じゃないこと言ったの?」
「言うはずがなかろう。それで損をするのがお前だけなら言うだろうが、何故だか大使はお前のことがお気に入りで、秘書だということにしておきたいらしい。大使が困って苦しむようなことを、この俺が言うはずがない」
 そうである。この男、私のことは何とも思っていないが、猫大使のことは本当に大事に思っているのだ。大使はカネオに対して、私のことを秘書だと偽って説明している。本当の秘書になるはずだった彼にしてみれば、悔しいことこの上ない話ではあるだろうが、大使に嫌われるのだけは避けたいのだろう。
「ともかく、ジュエフに関する件だ。これが今回のレポートだな。読ませてもらったぞ」
 ばさっ
 そう言って彼がテーブルの上に投げ出したのは、A4サイズで5枚ほどの書類だった。文字がぎっしりと書かれており、読む気にもなれない。
「冥界の孤児院から家出し、現世に迷い出てしまったジュエフを、ある冥界人の女性が偶然保護。以前いた施設と別の施設に送ろうとしたところで、話が止まっているんだな。別の施設に行かせようとしたのはいじめが原因だが、そんなものは無かったとジュエフ自身が言っている」
 かちゃり、とマーロンがメガネを上げた。
「あれ、こっちでジュエフが発見されたんだっけ?」
「当たり前だろう。そうでなければ、なぜこちらにジュエフが滞在している?」
 確かに彼の言う通りである。そんな基本的なことすら、私はちゃんと確認せずにジュエフと暮らしていたのだ。思えば、ジュエフの好物や趣味趣向すらろくに知らずに同居している。よくよく考えてみれば不思議な関係だ。
「現時点での課題は2つ。ジュエフが何故家出をし、こちらへ来ることになったのかを調べること。そして、ジュエフが冥界へ帰ったときの行き先を探すこと。特に、前者が重要だ。家出をした経緯が不明瞭である以上、2度目3度目が起きないとも限らない」
「いじめられてたって話だけど、本人は否定してるもんねえ」
「そこが腑に落ちん。孤児院ではいじめはあったものとして話をしていて、本人がそれを否定している。逆パターンならば話はわかりやすいんだが」
 私とマーロンは、ほぼ同時にうーんと唸った。手元にある情報だけでは、解決策どころかこうなった理由すらわからない。
「…で、それがどうかしたの?」
 エアコンの暖かい風の中、眠気を感じてしまう。店内に流れるリラクゼーションミュージックも眠くなる要因の1つだ。
「まずは、ジュエフの考えを確認したい。あいつはこれから先、どうしたいのかだ。だから、あいつと話し合いをする時間を1度作って…」
「前の院に戻りたいって言ってたよ」
 マーロンの言葉に口を挟み、私が言う。
「なんだと?戻りたい?あいつがそう言ったのか?」
 途端に、マーロンの顔が険しくなった。
「そうだよ。だって、他の孤児院に行かせるって話をして、おじゃんになったことがあったじゃない。そのとき、、どっかやられるのはいやだって、前の所に戻りたいって自分で言ってたもん」
「なんだ、それは…理解できん。どういうことなんだ?」
 頭を抱え、マーロンが考え込んだ。
「…ともかく。俺は、こちらへジュエフが来たとき、彼を保護したという女性の元へと行くつもりだ。それで何かがわかるかもしれんからな」
 がたっ
 立ち上がったマーロンは書類をまとめ、鞄に入れた。
「ジュエフの話はこれで終わり?」
「そうだ、忘れていた。」
 首元のネクタイを直し、マーロンが私に向き直る。
「今夜から1週間ほど、大使はどこかへ出かけるはずだ。本人はなんと言って出かけるかわからんが、ジュエフに関連する調査のための出張となる。俺も付いていきたいところではあるが、それは不可能だ。そこで…」
 マーロンが懐から、小さな紙包みを取り出した。見ようによってはお守りにも見える。
「これを、大使の荷物の中に忍び込ませてほしい」
「…これ、何?」
 包みを取り上げた私は、それを開こうとした。が、その手をマーロンによって止められた。
「開けるな。ここで開けると何が起きるかわからん」
 マーロンが周囲をきょろきょろと見回す。まるで誰かにこの包みを見せたくないと言っているかのようだ。
「わかった。じゃあ、大使が帰ったらこれを渡しておくよ」
 包みを受け取った私は、それをハンドバッグに入れた。
「何、大使は今、どこかへ出かけてるのか?」
「うん。今日の夕方には帰るって…」
「なんだと?」
 私の言葉を聞いたマーロンが、顔を青くした。大使が出かけていったのは昨日の夕方だ。ジュエフが健康診断から帰ってきた後、用事があるから出かけると言い、どこかへ行ってしまったのだ。夕方には帰ると本人は言っていたはずだ。
「嫌な予感がする。既に出てしまっているのかも知れん。カネオの所へ確認に行ってくる。冥界に帰るときには、彼の所へ行かなければならないからな」
 かちゃん
 コーヒーを飲み干したマーロンが立ち上がる。
「あ、これは?」
 包みを再度取り出した私は、マーロンにそれを見せた。
「それはお前が持っておけ。何かの役に立つはずだ」
「わかった…その女の人に会いに行くのは?」
「後回しだ。今は大使の足跡を追う方が先決だ。また連絡をする」
 一体、なんだというのだろうか。この包みが、猫大使にとってそんなに大事な物なのだろうか。よくわからない。そんなことをぼんやりと考えている間に、マーロンは店を出て、どこかへ行ってしまった。


「電話ではダメだったんでしょうか」
 帰ってきて、ジュエフにマーロンの話をした時。彼の第一声はそれだった。
「あ、言われてみればそうだよね。別に電話で確認すればそれでいい話のはずなのに」
 確かに、ジュエフの言う通りである、と私も思う。こたつに入り、帰りに寄ったスーパーで買ってきたミカンを剥きながら、私は返事をした。
「なんだか、僕のせいでみなさんに迷惑をかけて、申し訳ないです…」
 ジュエフがまたしゅんとしてしまった。この子は本当にマイナス思考が強い。しばらく放っておけばいつの間にか復活しているので、最近では慰める事もあまりなくなってしまった。
「そろそろカレーが良いころかねえ」
 ミカンを食べながら、カレーの鍋を見に行く。茶色いカレーは、小さな泡を底からわき出させながら、独特の食欲をそそる匂いを放っている。夕飯まではまだまだ時間があるが、この時点で既にお腹が空いてしまった。猫大使も、きっと喜ぶことだろう。
『大使、帰ってくるのかな…』
 さっきのマーロンの態度が気になってしまう。まるで、猫大使に何かが起きるかも知れないとでも言いたげな様子だった。彼はただの大使なんだろうし、そんな危険なことなど起きるはずない、と思いたいのだが。
 ブブブブブ
「おっ」
 そんなことを考えていたら、部屋の方にある携帯電話が、バイブレーションした。もしかすると、猫大使がメールか電話でもよこしたのかも知れない。鍋の火を止めた私は、部屋に戻る。
「あ…」
 それは、猫大使からのメールではなかった。どこかの出版社からのメールだ。初めて見る名の出版社で、宛先は私のパソコンのアドレス。どうやら私にイラストの依頼をしたいようだ。パソコンから来たメールは、みんな転送で携帯に来るようになっているので、こういったメールを最初に見るのは携帯の画面である。
「うわぉ、仕事だ」
 小さな声で呟く。イラストの仕事なんか、ここ最近は全然入っていなかった。私のような無名の絵描きに仕事を頼むなんて、よっぽどお金がないのか、それとも新人を意図的に使おうとしているかのどちらかだろう。
 イラストの仕事が最初に来たのは3年前。今ではそれなりに来るようになった。毎回、イラストの仕事は全力かつ命がけで行っている。だからこそ、私のことを評価してくれる人も増えてきたのだろう。とても嬉しい話だ。
「仕事って、アルバイトですか?」
「お絵かきよ。嬉しいねえ、こういうの」
 早速、パソコンを開いた私は、メールを受信した。詳細な要件を確認するためだ。添付ファイルで書類が来ている。
「ん?」
 おかしい。もう1件、パソコンにメールが来ている。こっちにメールが来ているときは、必ず携帯電話にもメールが転送されているはずなのだが。差出人の欄には、見たこともないメールアドレスが書かれていた。
「なに、これ?」
 かちっ
 何の気無しにクリックする私。画面には、よくわからない漢字や記号がずらずらと並んだ。画面には、添付ファイルを示す記号が出ていて、そのファイル名もおかしな漢字が並んだ文字列になっている。
「文字化けてる…」
 どこから来たメールなのだろうか。スパムメールの一種かと思った私は、それを削除しようとマウスポインタを動かした。
「あ、待って下さい。その添付ファイル…」
 ジュエフが私の手からマウスを取って、添付ファイルをパソコン上にダウンロードした。正直、よくわからない物はダウンロードしたくないのだが。
「やっぱり。これ、フォントファイルです」
「フォント?」
「ええ。文字のセットみたいなものですよ。こうすると…」
 ジュエフがなにやら怪しい作業をして、フォントファイルをどこかのフォルダに入れた。そして、メールソフトを起動しなおす。
「なに、これ?」
 さっき文字化けだった文字は、中東かどこかの言語みたいな、よくわからない記号に変化していた。英語ならまだしも、こんなもの読もうと思っても読めない。いや、英語もそれほど読めるわけでもないが。
「結局スパムメールじゃない。こんなの…」
「スパムではありませんよ。これ、大使さんからのメールです」
「え?」
 この子は何を言っているのだろうか。いや、1つだけ可能性がある。
「冥界語?」
「えーと、まあ、はい。冥界全部でこの言葉が使われているわけではないですけど」
 こんなよくわからない形の文字が使われているのか、と感心してしまうほどの文字だ。向こうからすれば、こっちの文字の方が難しいのかも知れないが。
「えーと…しばらく出かけるみたいです。当分は帰らないって。メールアドレスは、絵を公開してるSNSから見つけたって言っていました」
「え、本当に?大使、見たの?恥ずかしいなあ、もう…」
 思わず顔が赤くなる。SNSに載せてる絵には古いものもあるし、下手なものも多い。そこ経由で初めての仕事が来たからと、今でも古い絵は消さずに載せたままにしているのだ。なんとも恥ずかしい。
「後、これ…戸締まりをちゃんとして、部屋に知らないやつを入れるな、ってあります。心配しているみたいですね」
「大使ったら。子供じゃないんだから、大丈夫…」
 ピンポーン
 と、唐突に部屋のチャイムが鳴った。私とジュエフが顔を見合わせる。あまりにもタイミングが良すぎる。私はポケットに携帯を入れ、玄関に向かった。こそこそとジュエフも続く。覗き穴をそっと覗くと…。
「あ、コタロー」
 なんのことはない。私の幼なじみ、野池小太郎だった。筋肉の付いた体は、寒さなど意に介さないかのようだ。
 がちゃ
「久しぶりー。どしたの?」
「いきなりすまん。なんか、メガネかけた男の人が店に来て、これを渡してくれって」
 小太郎が、手に持っていた封筒を私に渡す。封筒は茶色の紙で出来たもので、何も書いていない。振ると、中から粉でも入っているかのようなさらさらという音がする。
「店に?その人って、どんな感じだった?」
「なんか痩せてて、きちっとした感じの。黒い髪してたけど、日本人じゃないっぽい…」
 恐らく、マーロンのことだろう。小太郎の店に行くくらいなら、こっちに寄って渡しても良いような気もするが。面倒くさかったのだろうか。
「なんですか、これ?」
「わかんない。マーロンからだと思う。ジュエフ、開けて?」
「はい」
 封筒を受け取ったジュエフは部屋に戻り、カッターで封を開け始めた。
「コタローはもう今日はバイト終わり?」
「うん。帰るついでに届けに来た。これから暇?メシでも行く?」
「ごめん、もうカレー作っちゃったんだ。もしよければ…」
 どさっ
「あ、ぐぅぁ…!」
 部屋の方で何かが倒れる音と、苦しそうな声が聞こえた。はっとして振り返ると、ジュエフが背中を丸め、倒れ込んでいた。
「わあ!ど、どうしたの!」
 慌てて部屋の中に入る私。小太郎が部屋の中に入り、ジュエフに駆け寄る。
「う、う、うううう」
 ジュエフの額を脂汗が流れる。カーペットには、封筒が落ち、白い粉が散らばっていた。
「どうしたの?どこか悪いの?」
 ジュエフを抱きかかえ、私は軽く揺さぶる。ジュエフは目を閉じたまま、苦しげに息をするだけだ。小太郎が落ちていた封筒を拾い上げる。
「なんだこれ。中はこの粉でいっぱいだ」
 封筒を軽く開け、小太郎が中を覗き込んでいる。これは一体なんなのか。カーペットに散らばっている粉に、私は手を伸ばした。
「触るな!」
 大声で言う小太郎に、私が背をびくっとさせる。
「危険物かも知れない。これは捨てよう。袋、ある?後、粘着テープ」
「あ、うん」
 棚の中から、畳んだビニール袋を出す。小太郎は封筒をそれの中に入れ、粘着テープでカーペットの粉を掃除しはじめた。
「か…さ…」
「え、なに?」
 小さな声で何かを言うジュエフの口に、耳を近づける。
「かあ、さま。くるしい、よう…くるし、ぃよ…」
 うわごとのように言ったジュエフの体から力が抜ける。とっさに首を支える。
「なに、これ。すごい熱じゃない」
 首の後ろは熱を保っていた。ジュエフの体中から、じっとりと汗がにじんでいる。抱き上げ、ベッドに寝かせようとしたが、私には無理だ。
「俺やる。羽道さん、パス」
 私のやろうとしていることを理解したのだろう。小太郎がジュエフを抱き上げ、ベッドに寝かせた。上から布団を被せる。
「…」
 ビニール袋の中に零れた白い粉は、砂糖や塩よりも粒が小さいもののようだ。これは、一体なんなのか。ジュエフは一体どうしてしまったのだろうか。
「かぁ、さま…」
 辛そうに、ジュエフが、言葉を零した。


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