猫大使様
その12 「猫大使様どっかへお出かけなさる」の巻


 冬である。寒くて仕方が無くて、カラカラに乾いて、なおかつ晴れの日ばかり続く季節である。いつもあまり行動的でない私、羽道晴美は、冬のせいでさらにものぐさになっていた。そろそろ夕飯の用意もしなければいけないし、皿だってお風呂だって洗わなければならない。だけど、やる気が全然起きないのだ。
「うー」
 足下から、唸るような声が聞こえる。そこにいるのは、砂糖か塩みたいに真っ白な猫、猫大使だ。この猫、真の姿は人間で、冥界からこちらへとやってきた大使様だという話である。こいつはもう2ヶ月も私の部屋に居候しており、たまに大使の仕事をしに家を出ていく他は、私と共に生活をしている。コタツの中に入って動かないその姿は、猫々しいとしか言いようがない。こんな言葉聞いたことない?読み方がわからない?私の知ったことではない。
「寒いねえ…」
「全くだ。この寒さは堪える」
 私の言葉に、猫大使が同意する。1人と1匹は、暖かさの魔力から逃れることが出来ず、コタツに入ってごろんと寝ころんだまま、もう30分も動いていない。
 この部屋には、私と猫大使以外に、もう1人住人がいる。それは、猫大使と同じ冥界出身で、細身金髪色白の少年、ジュエフである。彼は今、この部屋にはいない。というのも、あるところへ出かけているからだ。
「ジュエフ、大丈夫かなあ…」
「大丈夫じゃろう。単なる健康診断なのだから、心配などいらん」
 そう、彼は健康診断に行っているのである。ジュエフは、冥界生まれの冥界育ち。そんな彼がなぜ現世にいるかというと、冥界からこちらへ不本意な形で迷い出ることになったからだ。元は孤児院にいたのだが、なぜか家出をして、冥界の「悪い方の割れ目」とかいう所に迷い込み、「痛くて辛い」思いをするハメになったのだとかいう話だ。こちらへ来てからちょうど1ヶ月が経過したので、何か感染症や身体的なダメージを受けていないかをチェックする意味で、健康診断に出ている。
「…ねえ、猫大使。なんでジュエフは家出したのかな」
 彼が家出をした理由について、私と大使は「孤児院でいじめがあったから」だと聞いていたが、ジュエフはそれを否定している。例えば、孤児院側が事実を隠したくていじめはなかったと嘘をつき、ジュエフはいじめられていたと主張するパターンならよくわかる。だが、今は逆だ。よくわからない。
「それなんだが、カネオが孤児院側に再度確認を取った。やはり、いじめられていたことに変わりはないらしい。それも、かなりひどい」
「…そうなの?」
「ああ。聞いていて、少々気分が悪くなるような内容だ。例えば、石を投げられた、とかな。実際に流血沙汰があったとも聞いた。院長を含め、職員はやめさせようとしたが、陰では行われていたようだ」
 ずきん、と私の心が痛んだ。ジュエフはやはりいじめられていたのではないか。何であの子は、嘘をついてまでいじめがなかったことにしたいのだろう。もしかすると、彼は本当に心優しい少年で、いじめっ子のことをかばってあんなことを言っていたのではなかろうか。
『…でも』
 それにしてもおかしい。彼はいじめがなかったと言ったばかりか、前の孤児院に戻りたいとまで言ってのけたのである。
 先ほど話に出たカネオというのは、現世で商人をしている冥界人で、猫大使の仕事を手伝っている。その関係で、ジュエフのことについて色々と調査を行ったり、冥界との中継役をしていたりする人間だ。
 いじめがあった孤児院にジュエフを返すのはかわいそうだと、カネオが別の孤児院を手配したとき、ジュエフはとても嫌な顔をした。そして、前の孤児院に戻りたいと言った。わざわざ石を投げつける相手のいるところに帰りたがるとは思えないのだが。
「…でもさ、ジュエフ、怪我がないよね。そんなひどいことされてたんなら、怪我ぐらいしていてもおかしくないと思うんだけど」
「やりようはある。服で隠れる部分とかな。詳しいことは聞いておらんが、血が出るほどのことが何度かあったとは聞いておる」
「あー、なるほど…」
 いじめというのは陰湿なものなのだ。他人にバレないようにする方法はいくらでもあるのだろう。もしかするとジュエフは、恐怖心をしっかりと植え付けられ、そのせいで嘘をついているのかも知れない。
「ひどい話だねえ…なんか、気が重くなっちゃった。起きあがる気にならない」
「そうでなくても寝たままではないか、たわけ者が」
 ぐったりしている私を、猫大使が罵倒した。
 ピンポーン
「ん?」
 今日はピザも頼んでいないし、来客の予定もないはずだ。猫大使はいきなりのチャイムに警戒し、コタツから出てベッドの横にある隙間に逃げ込んだ。彼が苦手としている男が来たかも知れないと思ったのだろう。
「はーい」
 玄関へ出て、鍵を外す。ドアを開けると、そこにいたのはジュエフと、1人の女性だった。全体的に細く、キツめの顔をして、三角形のメガネをかけている。
「あ…ど、どうも」
 私はその女に頭を下げた。彼女は、カネオの秘書をしている女性だ。今回の健康診断は、カネオのところで行っていたので、彼女がジュエフを連れてきてくれたのだろう。行きはジュエフ1人だったし、帰りもそうだと思っていた私は、不意打ちを受けた形になるわけだ。すっぴんだし髪もちゃんとしていない、服だって普段着のままなのに、こんなところを見られるとは本当に恥ずかしい。
「戻りました。特に異常はないそうです」
 ジュエフが靴を脱ぎ、部屋の中に上がってきた。
「そうかあ、よかったねえ。すいません、わざわざジュエフを送っていただいて…えーと…」
 秘書にお礼を言おうとして、私ははたと困ってしまった。そう言えば、この女の名前を聞いたことがない。
「氷室です。氷室アカネ」
 そんな私を見て、彼女も自己紹介をしていなかったことを思い出したのだろう。秘書はにこりともせず、名を名乗った。ジュエフはその間に、奥へと入っていく。
「あ、えーと、氷室さん、ありがとうございます」
 この女は、美人ではあるのだが、いかんせん無愛想すぎる。どうも苦手な相手だ。
「こちらがジュエフの診断書です。若干、霊体の方に影がありますが、大丈夫です」
 そう言って、氷室が一通の封筒を取り出す。
「えーと、霊体?」
「はい。やや影がありますが、このぐらいならば問題はないとのことです。悪性の腫瘍の場合には手術が必要になりますが、今は問題ありません」
 困惑顔の私に、氷室がさらりと答える。私の欲しい回答は、そういうものではないのだが…。
「あの、せっかく来ていただいたし、お茶でも…」
「いえ、お気になさらず。この後、寄らねばならないところがありまして。申し訳ありません」
「あ、いえいえ。こちらこそ、ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げる氷室に、私も頭を下げ直す。風邪などひかぬようにお気をつけください、と言った彼女は、部屋を出ていった。
「ふう…」
 鍵を閉めた私も部屋の中へ戻る。外の風はだいぶ冷たい、早くコタツに戻りたい。
「そうか。電車の乗り間違いなどはなかったか?」
「大丈夫です。そんなに遠くでもありませんでしたし」
 猫大使は早速ジュエフの膝の上に乗り、ジュエフのブラッシングを受けている。猫大使は、なんとかブタの毛で作ったとか言う高級ブラシで、ジュエフにブラッシングしてもらうのがお気に入りなのだ。私のブラッシングも悪くはないらしいが、ジュエフの方が格段に上手いという話だ。
「お、晴美。それはなんだ?」
 私の抱えている封筒を見た猫大使が、顔を上げる。
「ジュエフの診断結果だってさ。はい」
 封筒の中から紙を出した私が、猫大使の前に並べる。猫大使は前足でそれをめくり、眺めていたが、ある紙のところで手を止めた。
「ん…?」
 その紙には、霊体なんとかかんとかという文字が書いてある。ジュエフの全身をCTスキャンのように撮った写真があり、胸部に小さな黒い影がついている。欄外には「極微少な霊体損傷あり、生命の危険性無し」と書かれていた。
「…」
 その紙を見つめたまま、猫大使は動かなくなってしまった。猫は時たま、敵か味方かわからない相手と対峙すると、停止してしまうことがあるが、そんな状態だ。
「大使さん?」
 猫大使の背の毛を梳き、ジュエフが顔を覗き込む。
「あ、いや、なんでもない。そうか、健康か。よかったな、悪い毒など入っていないか、心配だったんじゃ。この間は、包丁で大きく指も切っていたしな」
 書類をまとめる猫大使。猫の手で、よくもこう器用に紙を扱えるものだと、感心してしまう。
 そう、彼の言うとおり、ジュエフは包丁でうっかり指を切っていたのだ。そのときは大変なことになった。幸い、すぐに消毒し止血したので大事には至らなかったが、その日からジュエフに包丁仕事をさせるときは私が必ず見ることにしている。
「ところで、晴美、今日は何曜日だ?」
「え?えーと…」
 猫大使に聞かれ、携帯電話のカレンダーを見る。
「今日は…水曜日…」
「なんだと?」
 私の言葉を聞いた猫大使は、耳をぴくりとさせた。
「おい、それを早く言わぬか。今日は少々、出かける用事がある。ワシの分の夜飯は用意せんでいい」
 すたっ
 ジュエフの膝から降りた猫大使は、そのまま窓へと飛び乗った。
「あ、ちょっと」
「明日の夕方には戻る。携帯は持って行くから、何かあったら電話しろ」
 がらっ
 猫手で窓を開け、猫大使が出ていった。その動きがあまりにも素早くて、止める暇すらなかった。
「…私、携帯のアドレスも番号も知らないんだけど」
 その声は、もう猫大使には届かなかった。ジュエフはブラシをもったまま、ぽかんとして窓を見ていたが、ふうと息をするとブラシについた毛をゴミ箱に落とし始めた。
「全く…猫大使も自分勝手なんだから…」
 そう言って窓の鍵を閉めた後、私は何気なくジュエフの首元に目をやった。白い肌で、どこにも傷なんか見あたらない。体のどこかに傷が残っていてもおかしくはないと思うのだが。彼の裸身を見たことはあまりないし、そのときどこにどんな傷が付いているかなんてちゃんと見ていないし覚えていない。
 覚えていないと言うことは、ひどい有様にはなっていないということだろうが、それでもしかし気になるのだ。だが、もし彼に「一緒にお風呂に入らないか」などと誘ったら、顔をピンク色にして拒否されることだろう。となると、取れる手段は1つしかない。
「外に出て疲れたでしょ。ちょっと待っててね」
 そう言って私はキッチンへ向かい、ポットのお湯をカップに注いで、ココアのパウダーを溶かした。
「あ、すみません」
 何も知らないジュエフは頭を下げた。その姿に、少々罪悪感を感じるが、仕方ないのだ。氷を入れ、人肌程度の温度まで下げる。そして私は、ココアを何食わぬ顔で運んだ。
 がっ
「あっ!?」
 そして、足下に置いてあるものにわざとひっかかり…
 ばしゃあ!
「きゃあ!」
 ジュエフにココアをぶちまけた。
「た、大変!ほら、火傷になる前に脱いで!」
 慌てたふりをして、私がジュエフのセーターを脱がせる。案の定、ココアはセーターだけではなく肌着にまで染み込んでいたので、それも半ば強引に剥ぎ取った。
『あれ…?』
 ジュエフの肌は、染み一つない綺麗なものだった。血が出るほどの怪我をした跡などどこにもない。
「だ、大丈夫?火傷なんかしてない?」
 そう言いながら、私がジュエフのことをひっくりかえしたり、腕や腋や腹を見たりするが、やはり傷跡などどこにもない。蚊に刺された跡すらない、綺麗な肌だ。一体、どういうことか。
「ひどいですよ…」
 私のそんな思惑を知ることもなく、ジュエフが泣きそうな顔でこっちを見ている。
「あ、ああ、ごめんね。お風呂、先入る?」
「入ります。髪までべちゃべちゃですし…」
 ココアまみれの服をまとめて、ジュエフが持っていく。そして、着替えの服を衣装ケースから取り出すと、キッチンの方へ行き仕切りのカーテンを閉めた。残された私は、ココアの飛び散ったあちこちを掃除しながら、ぼんやりと考え事をしていた。ジュエフは、怪我を、していなかった。となると、投石行為すら嘘なのか?それとも、何か理由があるのか?そう、彼は体のどこにも、傷1つなかったのだ。どこにも…。
「あれ」
 それって、おかしくないか?と思う。
「なんで…指に傷跡がなかったんだろ」


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