猫大使様
その11 「猫大使様冬毛になりなさる」の巻


 ここ数日、私、羽道晴美は不機嫌だった。なぜかというと、部屋の中が著しく汚れていたからだ。といっても、物が散らかっていたりするわけではない。部屋の中を飛び交う、ある物が原因である。
「ああっ、もう!なんでこんなに!」
 この間、肩ぐらいまで揃えた黒髪の中に、「それ」が混ざっているのを発見した私は、悪態をついた。それ、というのは、白くて細い、毛である。この毛は何の毛かというと…。
「大使さん、すごい抜け毛ですね…」
「この姿でいると、こうなるのだ。仕方がない」
 金色の短髪美少年の膝の上で、ブラッシングを受けている、この白猫の毛である。この少年は名をジュエフ、この猫は猫大使と言う。この2人…否、この1人と1匹は、冥界という現世とはまた違う世界からやってきているらしい。
 ジュエフは冥界の孤児院にて育った少年で、猫大使は現世の大使だという話だ。なんとも怪しい話ではあるが、信じざるを得ない。というか、私は面白くて楽しければ、どっちでもいいのだと、最近気が付いた。
「ほんとひどいよ。全く、コロコロが欠かせないよ」
 私は粘着コロコロを使い、カーペットの上を何度も掃除している。1日に3度は掃除している。それでも、きれいにならない。というよりも、きれいにするたびにまた汚れてしまうのだ。
「そろそろ冬毛になる季節だからな。抜けてしまうのは、ワシの意思ではどうしようもないのだ。すまぬな」
 すまぬ、などと言ってはいるが、全然そんな顔をしていない。腹立たしい。
 そもそも、普段から抜け毛が気になってはいたのだ。猫の毛はかなり抜けると知ってはいたが、その抜け具合まで知りはしなかった。酷いときになると、食事にまで入ったりする。猫大使も、毛繕いなどをしてはいるのだが、それでも全然追いつかない。外で暮らしているならば、風が毛を飛ばしてくれるだろうが、アパートの中ではそんなこともない。結果、私が掃除することとなるのだ。
「ジュエフはブラッシングが上手いな。猫を飼っていたことがあるのか?」
「猫はありませんけど、ウサギならば。みんなで飼っていたんです」
「そうか、なるほどな。良い心地じゃ」
 猫大使が気持ちよさそうに目を細める。全く、この猫と来たら。掃除する身にもなってほしいものだ。
「ジュエフに任せずに、自分でやればいいでしょ。野生の猫だってそうしてるじゃん」
 べりっ
 毛だらけになった粘着テープを剥がし、私が言う。
「お前、そんなことしたら、どうなると思っている」
「どうなるのよ」
「毛玉を吐く」
 猫大使が深刻そうな顔で言った。
「う…」
 私は言葉を失ってしまった。それはそれで困る。この猫は、今はこんな姿をしているが、実は人の姿にもなれる…らしい。らしい、というのは、実際に彼が人の姿になったところを、写真でしか見たことがないからだ。
 彼の人の姿は、私好みの色黒め髪白色の細身イケメンなのである。今の猫大使が毛玉を吐くと、どうしてもそのイケメンが毛玉を吐くところを想像してしまう。
「そう言えば、大使さんにはノミがいませんね」
 毛を梳きながら、ジュエフが言った。そういえば、猫大使にノミがついていたことはない。
「ノミなどに吸われてなるものか。あやつらはもぞもぞして痒くなる」
 猫大使が顔をしかめる。
「付いてたこと、あるの?」
「1度だけな。もう2度とごめんだ」
 私の問いに、不機嫌を隠そうともせず、猫大使が返事する。どうやらノミのことは、猫大使にとっては嫌な思い出らしい。
「そんなことより、暖房の温度は上がらんのか?寒くてな」
 猫大使が、エアコンを見上げる。
「もうこれ以上、設定温度高くならないもん。ほら」
 そう言って、エアコンのリモコンを見せる私。設定温度は36度、これ以上は上がらない。と言っても、部屋の温度はかなり低い。絶対に36度になんかなってない。
「コタツに入ればいいじゃん」
「そうすると、ジュエフの毛繕いを受けられんだろうが」
「コタツの中でしてもらえばいいじゃん」
「お前、コタツの中を毛だらけにしていいのか」
 …ごもっとも。毛が抜けきっていない今の状態でコタツの中に入られては、毛だらけになってしまう。無精をしている私は、コタツの中の掃除を毎日しているわけではない。しかも、コタツの中は熱があるので、毛が焦げたりして危ないかも知れない。
「もう少しの辛抱ですよ。毛が生え替わりさえすれば」
 はあ、とジュエフがため息をついた。彼も、食事に毛が紛れ込んでいるなどの被害を受けている1人なのだ。
 改めてエアコンを見てみよう。天井付近に付いているこのエアコンは、この部屋に入ったときに前の住人が置いていった品である。だいぶ古く、動くときはブーンという低い音を鳴らす。どんな住人が使っていたかわからない時点で気持ちは悪いが、お金の無かった私は、これを改修して使っている。と言っても、そんなに機械に精通しているわけではない。これを改修したのは、友人のとある男だ。
 ピンポーン
「お、来たぞ」
 猫大使が期待に満ちた目をドアに向けた。私がドアを開けると、そこにはピザ屋の青い制服を着た青年が1人立っていた。
「ピッツァマンでーす」
「はい、どうもどうも」
 青年からピザを受け取った私は、あらかじめ用意しておいたお金を手渡す。短い茶髪に、ピアスをつけた彼の名前は、野池小太郎。私の同級生で、友人である。
「毎週、2枚はピザ頼んでるけど、大丈夫なの?」
 お金を確認し、ポーチに入れながら、小太郎が聞く。
「大丈夫って?」
「お金とか、栄養バランスとか。羽道さん、料理とかしてる?」
 あくまで軽いノリで聞いてくる小太郎に、私はうっと唸った。
「ま、ね。今日はお皿を洗ってなくて、面倒だったから…」
 なんと言い訳じみているのだろうか、と我ながら思う。この男、見た目こそいわゆるチャラ男ではあるが、その中身はしっかりとした男なのである。エアコンを直したのも彼だ。うちで何かが壊れたときには、彼に直してもらうことが多い。家の中が汚くても、彼になら別に見られても問題ない。
 というか、私だって彼の部屋の、エロ本が隠してある場所まで知っているのだから、別に恥ずかしがることはない。この男、私のことを恋愛対象どころか女性としてすら見ていないのだから、こっちも気兼ねなく友達づきあいをすることが出来る。
 てててっ
「あっ」
 と、話している私の足下を、猫大使が駆け抜けていく。
「大使さーん、どこ行くんですか」
 その後を、ジュエフが追いかける。ジュエフは小太郎の顔を見て、少し立ち止まった後に、軽く礼をしてから靴を履き、外へと出ていった。
「…あの子、前から気になってたけど、本当に外国人なの?」
「うん。どうして?」
「立ち振る舞いが日本人そっくりなんだわ。礼と言い、今のチョップと言い」
「チョップ?」
 小太郎は、何のことを言っているのだろうか。よくわからなくて、悩んでしまう。
「ほら、人と人の間を通るとき、日本人ってチョップしながら通んじゃん?外国人はやらねえんだよ」
 そう言って、平型にした手を前後に振る小太郎。そう言われてみれば、そうだ。ジュエフは人の間を通るとき、チョップしながら進む。
「こっち来て、まだ数ヶ月の子供なのに、チョップスタイル。出来るね。適応能力高いのか」
 はっはっは、と笑う小太郎。彼に言われるまで、私はジュエフの行動に違和感を持つことすらしなかった。彼は観察力もあるようだ。
「こんなところで立ち話してていいの?」
 そろそろ寒くなってきた私が、会話を切り上げるべく、小太郎を促した。
「そうだな。そろそろ行くわ。またメールくれ。じゃ、ありがとうございました」
 私に言われ、時間のことを思い出したらしく、小太郎が腰を軽く折って礼をした。ドアを閉め、私は部屋に戻る。猫大使もジュエフもいないので、今のうちに粘着テープでカーペットをきれいにしてしまおう。
「そういえば…」
 なぜ猫大使は今、外へ出て行ったのだろうか。小太郎と会話をしていて、部屋の中の会話を聞いていなかった。何か、外に見つけたのだろうか。気になった私は、カーテンを開けて外を見た。
「うわ…」
 雪が降っている。さっきから寒い寒いと思っていたが、これじゃあ暖房がきかないのも頷ける。猫大使はこれを見て、外に走っていったに違いない。猫はコタツで丸くなると言うが、雪を見てはしゃぐとはかわいいやつだ。
 ピンポーン
「あれ?」
 またチャイムが鳴る。小太郎が忘れ物でもして戻ってきたのだろうか。私は玄関に戻り、ドアを開けた。
 がちゃり
「お前か」
 そこに立っていたのは、細身長身で黒い髪を短く揃えている、メガネをかけた男だった。黒いスーツを着こなしているが、手に持っているビニール袋がアンバランスだ。美男子と言えば美男子、イケメンと言えばイケメンな顔つき。私はこの男を知っている。
「…」
 ばたん
 何も言わず、ドアを閉めた。ふうと息をつき、部屋に戻る
 がちゃっ!
「無視をするな!無視を!」
 ドアを開けて、男が部屋に上がり込んできた。
「私に何かご用で?」
 私は男に向かって、できる限りの冷たい視線を投げつける。
「貴様なんぞに用はない!大使の補佐役たるこの俺が、貴様のような洟垂れ小娘に会いにわざわざ兎小屋に足を運ぶか!」
 かちゃっ、とメガネを上げ、男が叫ぶ。相変わらずうるさい男だ。こいつはマーロン・八芭。現世にて、猫大使の世話をすることになっていた男なのだが、そのあまりのうっとおしさに猫大使が音を上げて2日で逃げ出した。私相手にはこんな言葉遣いだが、猫大使相手にはまるで恋人を口説くかのような甘い言葉を吐きかけるのだ。
「大使ならいないよ。さっき出ていった」
「なんだと!貴様、嘘をついたら承知せんぞ!」
「嘘つかないし。部屋ん中、確認してもいいけど?」
 半身になった私が、部屋の中を見せる。マーロンは首を伸ばし、部屋の中を確認していたが、猫大使がいないことを確かめると、肩を落とした。
「大使…俺は、大使をこんなに思っているというのに…なぜ、なぜ大使は俺から逃げるんですか…くそっ、ちくしょうっ!○×△□!」
 何語だかわからない言葉を吐くマーロン。彼のこの言葉が、冥界の言葉なのだろうか。
「貴様、どこに行ったか知っているんだろう?吐け!」
 私のことを睨み付けるマーロンの目は、怒り狂った猛獣の目にも近い。だが、知らないものは知らないのだ。私は首を横に振った。
「大使ー!」
 がっくりと膝を付き、崩れ落ちるマーロン。いつもは敵意丸出しの彼であるあ、こうなるとなんだか哀れに思えてしまう。
「まあ、元気出しなよ。ほら、これ」
 そう言って、私は携帯電話から猫の写真を見せた。腹を見せ、昼寝をしているアメリカンショートヘアの写真だ。マーロンは軽く首を上げ、そして。
「うおおっ!?」
 私の手から携帯を受け取り、写真に見入った。
「なんと美しい毛並み、これは愛されて育っている証拠!尻尾の曲がり具合からも気品を感じられる!これが新世代のクイーンか!」
「クイーン?」
「そうだ。これは女性だろう。それならば、女王と呼び表すのがもっとも適切だ」
 この猫は雌だったのか。私は全然気が付かなかった。
「…だがな、俺は猫大使一筋だ。いかに美しい写真を見せられようと、貴様に猫大使を渡す気は毛頭ないっ!」
 ずずい、と顔を近づけて、マーロンが叫ぶ。
「別に奪う気無いし」
 その手から、携帯電話を奪い取る。なんでこう、この男は高圧的なのだろうか。面倒くさいしうっとおしい。
「つか、猫大使に何か用だったの?」
「そうだ、用だ!」
 そう言って、彼は手に持っているビニール袋を差し出す。
「いいか、これには金と時間と手間をかけた、最高級のグルーミング用具が入っている。大使もそろそろ冬毛へと変わるころだろうと思って持ってきたのだ。いいかっ、粗相のないように大使の毛をトリミングして差し上げろよ!」
 ばたんっ!
 袋を私が受け取ったのを確認すると、これ以上こんなところにいられるかとでも言いたげな顔をして、マーロンは部屋を出ていった。暫時、ぽかんとしていた私だったが、袋を持ったまま部屋の中に戻る。小太郎はあんなに礼儀正しいのに、マーロンはなんであんなに無礼なのだろうか。同じ男のはずなのに。全くもってわからない。
 がちゃ
「ただいま」
 と、ドアを開けて入ってきたのは、ジュエフと猫大使だった。ジュエフの肩や髪には雪がついている。
「奴は行ったか?」
 開口一番、猫大使が私に聞いた。
「うん。帰ったよ。これ、持ってきたって」
 ビニール袋を見せる私。つまり猫大使は、マーロンが来たのを見て、ここにいたくないと思って逃げ出したのだ。それなら頷ける。
「なんだ、それは。怪しいものではなかろうな?」
「なんか、グルーミング用の道具だって」
 ジュエフに手渡し、私が手を洗う。ジュエフは袋を持ち、猫大使と奥へ入っていった。私はピザを食べるべく、お皿とフォーク、そして飲み物とコップを持ち、コタツへ向かう。かなりの大荷物ではあるが、これぐらいならばもう慣れてしまった。
「ブラシが入っていますね」
 ジュエフは袋の中を漁り、1本のブラシを取り出した。
「お、おお!これは!」
 そのブラシを見た猫大使の顔色が変わる。
「これは、バクモシャブタの毛を使って作られた、最高級ブラシではないか!しかも持ち手はケクの木を使っておる!」
 猫大使がブラシを前足でふにふにして、興奮した面もちで言った。
「すごいの?」
「すごいぞ!こちらの価値で言うなら、1本1万円は下らないものじゃ!マーロンめ、こんなものどこで用意したのか…」
 食事の用意を続けながら聞く私に、猫大使が熱弁した。
「よし、ジュエフ、早速そのブラシでワシの毛を梳いておくれ。これは楽しみだぞ」
 猫大使はコタツに入ったジュエフの膝にでんと座って、ブラッシングを待った。
「え、でも、これからご飯ですよ」
「ブラッシングが先よ!」
「でも…」
 ジュエフが私の方をちらりと見た。そう、私は怒っているのである。食事前にブラッシングなんかされたら、また毛が飛んでしまう。猫大使も、それを理解したようで、ブラシを惜しげに触った後に席に着いた。
「さあて、と」
 紙で出来た箱を開けると、そこは別世界。黄色く色つや美しいチーズが湯気を上げ、ソーセージやペパロニが舞い踊る、円形のステージが現れる。コーンやマヨネーズは脇役だが、いなければ困る。その上に、付属の特性スパイスを散らせば、黄金のステージに彩りと刺激的な匂いが立ちこめる。私はピザ切りカッターで手際よくピザを切った。
「しかし、マーロンを見て逃げ出してたんだね。私はてっきり…」
「てっきり、なんだ?」
 自分に切り分けられたピザをもそもそ食べながら、猫大使が聞く。
「いや、てっきり、雪を見て喜んで出て行ったのかと思って」
 くすくすと笑う。まさかそんなことで喜ぶはずもないだろう、と思ったのだ。しかし、猫大使は神妙な顔をして、俯いた。
「まあ…雪は嬉しくはある。ワシがおったのは砂漠、それも暑い地域でな。本物の雪は初めてかも知れぬ」
 猫大使が、自分の国のことを語ったのは、久しぶりかも知れない。
「へえ、そうなんだ…」
 砂漠の国。どんなところなのだろう。彼は一体、どんな生活をしていたのだろう。知りたい。でも、聞くことは出来ない。そんなことをしたら、どこかへ行ってしまいそうな気がして。
「そう言えば、ジュエフはどんなところで産まれたのだ?ワシと同じ国なのよな?」
 私の表情から、この話題を続けない方が良いと判断したのか、猫大使が話を逸らす。
「えっと…僕、実は古い記憶がないんです」
「なんだと?」
「今の施設に入ってからの、2年のことは覚えているんですけど、それより前はどんな生活をしていたか、よく覚えていないんです」
 ジュエフが、どことなく申し訳なさそうな顔をする。記憶が無い。そんなことはあるのだろうか。
「名前や年齢は?」
「それは覚えていました。基本的なことは覚えていたんです。でも、それ以外の、例えば産まれ育った街とか、そういうのは全然…」
「家出の時と同じだな」
 猫大使が、首を捻る。
「先生が言うには、僕はボロボロの毛布と、緑色の石がついた首飾りだけ持って、孤児院の前で寝ていたんだそうです。その辺りのことも覚えてなくて、気が付くと、孤児院で普通に生活をしていたんですよ」
 なんだか、小説か映画のような話だ。ジュエフは本当に謎が多い。もちろん、謎が多いからと言って彼を差別したりはしないが。
「…ま、なんであれ、お前はお前だ。過去がどうであれ、さして評価が変わるわけでもない」
 猫大使も、私と同じ考えをしているようだ。抱きしめて撫でたくなるが、今は食事時だ、後にしよう。
「さあて、飯だ。飯…はっ」
 猫大使が、なんだか眩しそうな顔をした。
「はっ…はっ…」
 これは、やばい。これはつまり…。
「はぁっくしゅん!」
 ぶぁっ!
 やっぱりだ。くしゃみをしやがった。抜け毛が、ばっと宙に舞う。しかし、この羽道晴美、こんなことで慌てたりはしない。そこにあったうちわを手に取ると、強い風を巻き起こした。
 ばっ!
 白い毛は風に飛び、ピザの上を離れた。よかった、脅威は去ったのだ。と、思いきや。ピザの上に乗っていたスパイスまでが風に乗り…。
「何をする、馬鹿者!」
「ひどいじゃないですかー!」
 ジュエフと猫大使は、スパイスまみれになってしまいました、とさ。


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