猫大使様
その10 「猫大使様面倒なのと会いなさる」の巻


 ギャップというのは、埋めるのにとても苦労をするものだ。特に、自分はこうあるべきだと思いこんでいるのに、それと逸脱した状態に陥ってしまうと、強いストレスと抑鬱感を感じる。私、羽道晴美も、そんな状況に困っている一人だった。
 私の黒髪はそれなりに長かった。それは、意図的に伸ばそうとしているわけではなく、髪を整えにいくのが面倒で伸びてしまって、美容院をさぼっていたからだ。
 前は首上までのセミロングだったのが、今では肩を越えてしまっている。後ろだけならば良い具合の髪長なのだが、前髪が問題だ。だんだんと長くなり、最近では目が隠れるようになってしまった。
 私はイラストレータ志望のアルバイターであり、アルバイトにて稼ぐ金額とイラスト系の仕事で稼ぐ金額の割合が9対1ぐらいになっている。アルバイトは、主に接客業と呼ばれる類の仕事をしている。この髪では、清潔感が無く、あまり良くないということで、美容院に行ってきたのだが…。
「そんなにぶすくれることもないじゃろう」
 砂糖みたいな白色をした猫が、私の背中を肉球でぽむぽむと叩き、慰めてくれている。彼の名前は猫大使。冥界よりやってきた、人間界大使だ。
「そうですよ。そんなことがあったとしても、僕なら気にしません」
 こたつに入り、曖昧な笑みを浮かべているのは、ジュエフという少年だ。短めでまとまっている金髪で、肌は白く、体が細くて、顔の造形が整っている。
「慰めてもらわなくていいし」
 私は2人に背を向けたまま、言った。
「たかだか、美容師に惹かれただけじゃろう。何をそんな気にすることがあるか」
「惹かれたんじゃありません、引かれたの!」
 呆れ声の猫大使に、私が声を荒げる。
「あーあーあーあー、どっかのお猫様のせいで、思い出しちゃいましたよ。やだ、やだぁ、もう」
 なんだか泣きたくなってきた私は、頭をぎゅうっと押さえた。気分が落ち込んで仕方ない。
 事は、数時間前まで遡る。美容院に行くことにした私だったが、今日は行きつけの美容院が休みだったのだ。明日はアルバイトがあるし、今日中に髪を整えなければ、店長に嫌みを言われてしまう。
 そこで私はインターネットで美容院を検索することにしたのだが、なんとこの近くに、東京都の床屋なんとか大会で金賞を受賞した美容院があるという事実を知ったのだ。雰囲気も、ホームページに載っている写真の限りではとてもおしゃれだし、行くしかないと考えた。
 早速電話をすると、予約をせずとも大丈夫だとの返答を受け、早速出かけることとした。店に到着し、ヘアスタイル雑誌でアレも良いコレも良いなどと考えているときには、まだ余裕があったのだ。
 問題はその後だ。私の相手をしてくれた美容師の男性は、世間一般ではイケメンの類に分類される男だった。調髪をしてもらっている間、他愛ない雑談をしていたのだが、ふと会話が途切れた瞬間に、私は眠りに落ちてしまったのだ。
 そのときに、夢を見た。夢の内容は覚えていないが、なんだかとても卑猥な夢だったように思う。私の目が覚めたのは、私がぶつぶつ言っていた寝言を自分の耳で聞いたからだ。かなり大きな声で誰かが喋ってると思って目を覚ましたら、それが自分の声だったのだ。
 そう、卑猥な夢だったわけで。それを寝言で言っていたわけで。イケメン美容師は、微妙な笑い方をしていて、私には何も言わなかった。
 そこからが地獄である。鏡越しに他の客や美容師を見ると、私の方をちらちら見ている。気のせいなどではなく、やはりかなり大きな声を出していたらしい。恥ずかしくて恥ずかしくて、私はすぐにでも逃げ出したかったが、調髪途中で逃げる事が出来るはずもなく。結局、目を覚ましてからたっぷり1時間、羞恥に耐えながら座り続け、お金を置いてお釣りも受け取らずさっさと逃げてきたのだった。
「もう2度とあそこ行けない…」
「行かねばよかろう」
「そういう問題じゃないっ!」
 ぎゅうううう!
「グエー!」
 無神経なことを言う猫大使の首根っこを掴み、私が上から押さえつける。猫大使は潰れたまま、叫び声を出した。
「私は品行方正に生きているつもりなのに。もう、そういう人間だって評価されちゃったんだよ。ありえない、ありえない」
 また膝を抱え、私が言った。私の手から逃れた猫大使は、部屋の対角へと逃げ、毛繕いを始めた。
「それはともかく…夜ご飯はどうするんですか?食べないわけにもいかないでしょう」
 困った顔で言うジュエフ。私はショックを受けて、ジュエフのことを睨み付けた。この子は、私の悲しみを「それはともかく」で横に置いたのだ。しかも、夜ご飯のことの方が、私の見に起きた悲劇よりも重要だと抜かしおった。腹は立ったが、猫大使相手じゃあるまいし、ジュエフに暴力は振るえない。私は無言でジュエフから目を逸らした。
「ご飯を食べれば元気になりますよ。ね、料理するのが面倒くさいならば、食べに行ってもいいですし…」
「うるさぁーい!そんな気分じゃないの!」
 ジュエフなりの心配の仕方なのだろうが、しゃくに障って仕方がない。いつもなら言わないような言葉だって出てしまう。ご飯を作ったり、食べに行ったりする気分じゃないのだ。
「もう放っておけ。ワシらだけで飯を食いに行こう。これ以上被害を受けても面白くない」
 ぷんすか怒った猫大使がジュエフの服の袖に爪を引っかけて引っ張った。
「行ってこればいいじゃん。私は今、ご飯を食べる気分じゃないし」
 売り言葉に買い言葉だ。私も猫大使に、冷たく返す。
「ほら、ああいっておる。食いに行こう」
「でも猫大使さん、猫にご飯を出してくれるお店なんて…」
「えい、探せばなんとかなるわ。ワシは腹が減っておる。これ以上、ぐちぐち言う女に付き合っておる暇なぞない」
 相変わらずこの猫は、人のことを挑発するのがとても上手い。腹が立つったらありゃしない。何か言ってやろうと、顔を上げたそのときだった。
 ピンポーン
「え?」
 玄関のチャイムが鳴ったのだ。
「ぼ、僕、ちょっと見てきます…」
「待って!」
 外に行こうとしたジュエフを、私は押さえつけた。
「NHKの徴収員だったら、見てないって言うのよ。いいね?」
「あ、は、はい…」
 そう言い含めると、ジュエフはやや困惑した顔で頷いて、玄関へと向かった。私はすかさず、部屋と玄関の間にあるカーテンを閉める。
 がちゃ
「あ、あの、どういったご用件で…」
 おどおどしたジュエフの声と、外を車が走っている音が、部屋の中に聞こえる。
「こちらは、羽道晴美さんのお宅ですか?」
 やや低めの、まるで声優なんじゃないかと思うようなイケメンボイスが聞こえてくる。と、それを聞いた猫大使の顔色が変わった。
「ええ、そうですけど…」
「ああ、よかった。こちらに、お客が来ていると思うのですが」
 猫大使は、にじにじと逃げ、ベッドの下の方へと潜り込んだ。その隙間は10センチくらいしかないのに、ぎゅうぎゅうに体を突っ込んでいる。
「お客さんですか?」
「そうです。白い猫の姿をしていると思うのですが」
 外のイケメンボイスは、どうやら猫大使に用事があってやってきたらしい。私はベッドの下に手を突っ込み、猫大使をむんずと掴んだ。
「ぎゃっ!」
 猫大使が小さな声で呻いた。私はそれを無視して、猫大使を無理矢理外に引っぱり出すと、だっこしてカーテンを開けた。
「こいつですか?」
 顔を上げる。そこにいたのは、細身でメガネをかけたスーツの青年だった。まだあどけなさの残る端正な顔立ちからは、真面目そうな印象を受ける。黒い髪を、やや長めに取り、後ろで1つにまとめている。エリート、という言葉の似合いそうな顔だ。にこりとも笑わず、彼はこちらの方を見ていた。
「…や、やあ。しばらくぶりだな」
 猫大使が微妙な笑みで、青年の方を向いた。と…。
「…ああああもう!大使、探しましたよ!」
 青年はいきなり、でれでれした顔で靴を脱ぎ、私の手の中から猫大使を受け取った。いや、受け取ったというよりは、奪い去ったという方が正しい。
「もーう!住居も用意してずぅーっとお待ちしていたんですよ!1ヶ月とちょっとの間、大使がお仕事をされている痕跡は見えても、大使の姿が見あたらず、さみしぃーい思いをしたんですから!」
 なでなでなでなでなでなで
「やめぃ!うっとおしい!」
 男の手が、猫大使を何度も何度も撫でる。猫大使は嫌がってその手から逃れようとするのだが、猫パンチを出しても身をよじって逃げようとしても、男は猫大使を離そうとしなかった。ジュエフと私は、そんな2人のことをぽかんと見ているしかなかった。
「さあ、帰りましょう!大使に似合う素晴らしい部屋をご用意しております!」
 そのまま猫大使を連れ去ろうとする男に、最初に正気に戻ったのはジュエフだった。
「た、大使さん、行っちゃうんですか?」
 もの悲しそうな目で、ジュエフが猫大使と男を交互に見た。
「行くわけなかろうが!こら、晴美、ジュエフ、ぼーっとしてないでワシを助けろ!」
 本気で嫌がっている猫大使が、救いを求めるように猫ハンドを伸ばした。思わず、その手を握る。
「…」
 と、男はいきなり仏頂面になり、私の方を振り返った。
「この手はなんだ?大使様にお手を触れようなどとは、万年早いわ、小娘が」
 私の指を、猫大使の手から剥がし、男が不機嫌最高潮といった様子で言った。
「いや、いきなり来られて猫大使を連れていくとか、困るし」
「このお方はこんな兎小屋に似合うような身分ではないのだ。勘違いも行き過ぎると笑えないぞ」
「少なくとも1ヶ月半はここに住んでたし。猫大使、嫌がってんじゃん」
 私は男をじろりと睨み付ける。今日一日の負のオーラも手伝って、今の私は視線で虎が殺せるレベルになっているはずだ。
「ははーん、わかったぞ。下民が、大使様の身柄を預かっていた礼が欲しいというんだな?」
 男はポケットに手を突っ込んだ。そして…
 ばさぁ!
「わ!」
 見たこともない柄の札を取り出し、玄関いっぱいにばらまいた。
「拾え。貴様にはもったいないぐらいの金だ」
 にやぁ、と男の顔がいやらしく歪んだ。腹立たしい。札を1枚手に取るが、本当に見たことのない金だ。インドなんかのお金は、お札でも日本円に換算すると大した額ではないと聞く。この男は、私に対する嫌がらせでこんなことをしているのだろうか。そう思うと…。
「いらねぇ!」
 びりぃ!
「あー!」
 無性に腹が立った。そして、札を1枚、びりびりに破いて撒いてみせた。
「き、貴様ー!この…」
 男は怒りを露わにした。と同時に、猫大使をホールドする力が緩んだらしい。猫大使が腕からするりと抜けて、部屋の奥に逃げ込んだ。
「あー!た、大使!なんで俺から逃げるんですか!」
 部屋の奥に入り込もうとする男を、私が通せんぼした。睨み合いがしばらく続く。
「…まあ。お茶を淹れますから、みなさん、落ち着いてください」
 まるで、部屋の主か何かのようにジュエフが言い、緊張はようやくほどけたのだった。


「紹介しようか」
 男の膝の上に、半ば強制的に抱きかかえられ、うんざりした顔で猫大使が言った。
「こやつはマーロン・八芭。現世にて、ワシの世話係をすることになっておった男だ」
「なっておった、じゃありません。なっている、ですよ、大使。俺はずっと大使が来るのをお待ちしていたんですから」
 猫大使を抱きしめ、男が幸せそうに微笑んだ。まーろん・はちば、と。すさまじい名前だ。
 …よく考えれば。猫大使は、実は色黒銀髪のイケメンの、人間形態になれるらしいのだ。目の前の男と猫大使、悪い意味で似合ってしまう。そして、そんな思考に至る自分に、やはり嫌らしい人間じゃないかと嫌悪感が先立った。
「マーロン。こいつは、羽道晴美。宿と食事を提供してくれている。こちらは、現在の案件で関係しているジュエフだ」
 猫大使が私とジュエフをマーロンに紹介した。途端に、マーロンの顔が仏頂面になる。
「大使を預かってくれたことには礼を言おうか。こちらで大使は引き取らせてもらおう。大使は大変お忙しい方だ、このような住居では睡眠にて疲れをとることすら満足に出来ない」
 むか、とした。
「要するに、私の部屋が汚いと?」
 売られたケンカは買う。今日はただでさえ、嫌な気分なのだ。
「ああ、そうだ。大使の毛並みが、格段に悪くなっている。しかも、前に比べて体重も増えておられるようだ。お前、大使にどんなジャンクフードを食べさせた?」
「別にジャンクばっかりじゃないし。中華丼とか、カレーとか、こないだは猫大使が食べたいって言うから鮭のムニエルだって作ったし…」
 嘘ではないが、本当のことでもない。確かに、1週間の内の半分はジャンクフードだ。ハンバーガー、ピザ、フライドチキン、レトルトパック。ホットケーキの占める割合も多い。ただ、ホットケーキは私もジュエフも猫大使も大好きだから、問題ないはずだ。
「はぁ〜…なんだ、それは?」
 マーロンが私を嘲笑した。
「例えば、今日の朝食には、何を用意した?」
「え、と…」
 助けを求め、私がジュエフに視線を投げる。
「えーと…ご飯と、ワカメと豆腐のおみそ汁、後は納豆に、キュウリの漬け物です」
 ナイスフォローだ。そういえば、今日は割とまともにご飯を作ったのだった。漬け物は買ってきたものだが、及第点ではあるだろう。
「全く、阿呆か。異国に来ている猫大使に、納豆だと?お前はアメリカ人がホームステイしているとき、納豆と漬け物を出すのか?」
「でも、猫大使は美味しそうに食べてたし」
「嫌々に決まっているだろ。大使は仏様のように優しい方だ、お前に心理的負担をかけさせないために、無理して食べただけだ」
 ぎゅううう
 マーロンが猫大使を強く抱く。猫大使は面倒くさくなったようで、否定も肯定もしない。せめて私を擁護くらいしてくれてもいいのに。
「いよいよもって大使を任せておけないな。大使、こんなところから脱出して、私の元へおいでください。より健康的で楽しい生活を用意してみせましょう」
 猫大使を撫でまくるマーロン。大使はしばらくは我慢していたが、突然堪忍袋の緒が切れたらしく…。
 ばりっ!
「いだー!」
 マーロンの手を引っ掻いた。そして、ごろんと降りると、私の膝へ乗っかった。
「やだ。お前、うざいんだもん」
 ぼそりと、猫大使が言った。
「なっ…うっ、うざいとは何事ですか!」
「うざいものはうざいのだ。ワシは自由気ままにしていたい。お前のところで2日ばかし過ごしたが、あんな生活を2度するぐらいならば、公園のトイレにでも住み着いた方がマシと言うもの。実際、そのつもりでワシはお前のところを出たのだ。晴美のところへ来られたのは、運がよかったぞ」
 猫大使が言葉を吐き出すたび、マーロンの顔が、絶望、悲しみ、そして怒り、苦しみなどと変わる。
「そんな!小娘の!どこが!良いと!言うのですか!俺なら、大使の望む物ぜーんぶ用意して差し上げられます!」
 だんっ!
 興奮したマーロンが立ち上がり、片足をこたつの上に置いた。
「金はあるし広い部屋もある、美味しい食事だって作りますし、大使が望むならシャンプーだってしましょう!だから、お戻りください!」
 あんまり大きな声を出さないでほしい、と私は思った。隣近所に響いたら迷惑なのだ。だがここで彼に何か意見をしようものならば、さらに面倒くさいことになる気がして、私は何も言えなかった。
「ワシは金はいらんしせせこましい部屋の方が好きじゃ。飯だって晴美の作るものの方が好みに合うし、シャンプーはジュエフが上手い。お主のところへ戻る利点が何もない」
 マーロンの言葉を、全て猫大使が否定する。怒りに打ち震えるマーロン。テーブルの上の醤油差しが震えている。
「あの…」
 ジュエフが、唐突に口を挟んだ。
「その、無理強いは良くないと思います。もし八芭さんのところの方が良ければ、大使さんはすぐ戻るはずです。今するべきなのは、怒ったりすることじゃなくて、大使さんが帰りたがるような環境作りでは?」
 正論だ。さすがはジュエフ、花丸をあげたくなるような正論だ。マーロンは、突然我に返ったようで、また仏頂面に戻った。この顔ならイケメンと言えないこともないのに、こんな性格では、と思ってしまう。
「…邪魔をしたな。また、来るぞ。それまで、大使に粗相をすることのないように」
 玄関へと向かうマーロン。私は猫大使を横に退かして、見送った。鍵を閉めるためだ。
「いいか!」
 びしっ!
 マーロンの指が、私の眉間に向けられた。
「もし大使に何かあったら、お前を殺す。殺してやる!俺が、お前を殺す!」
 ばたん!
 捨てぜりふを残して、マーロンは去っていった。殺す、だなんて言われたのは久しぶりだ。でも、今はようやくいなくなってくれたという気持ちの方が勝って、腹が立つことはなかった。
「…強烈だったね、あの人」
 疲れを感じた私は、座り込んだ。ジュエフが、こたつの上にあったお茶のカップを台所へと持っていく。
「全く。ここを見つけられるとはおもわなんだ。もう会うことなどないと思っておったのに」
 猫大使はまだいらいらしているようで、尻尾をぱったんぱったんと振っている。
「あの顔と性格のギャップがまた、ね。顔だけならクールキャラなのに、その実は猫大使大好きで人に攻撃的な嫌みキャラなんだから」
「ああ…しかし、疲れた」
 猫大使が私の膝の上に乗っかった。成描の体重は結構あるので、ずっと猫大使をだっこしていると疲れてしまう。なので、いつもは下ろしてしまうのだが、今日はなんだかそんな気分でもなくて、だっこしていた。
「ほーら、猫大使好き好き、やわらかいー」
 マーロンの真似をして、猫大使の頭やら首やら背中やらをなで回す私。猫大使は、最初こそうっとおしそうにしていたものの、抵抗をやめ、私のなすがままになっていた。
「あれ、嫌がらないね。どうしたの」
 猫大使の髭をつにつにしながら、私が聞いた。
「…ま、お前にやられても、別に嫌ではないしな」
 さらっと言ってのける猫大使。思わず、私の体温が上がる。
「嫌じゃないの?」
「別にな」
 …。
 何も、言えない。気恥ずかしくなった私は、猫大使を撫でるのをやめた。
「しかし、ようやくお前も機嫌が直ったな。夜飯はどうする?」
 嬉しそうに猫大使が言った。彼の言葉で、私がなぜ不機嫌だったのか、なぜ鬱になっていたのかを思い出してしまった。そして、猫大使は結局、自分の夕飯のことしか考えていないのだと、わかってしまった。
「…」
 もう何も言えない。別の意味で。彼は、やはり、彼だった。
 私は、電話を手に取った。そして、チラシを手に取った。そして…。
『ありがとうございます、ピッツァマンです!』
「あ、注文お願いします」
 ピザを注文したのだった。


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