猫大使様
その1 「猫大使様大地に立たれる」の巻


 夕食を食べないといけない、と強く思っていた。だけど、体は動かなかった。バイトが終わって、体力を使い果たしてしまったからだ。
 私は羽道晴美。羽の道と書いて「うみち」と読む。職業はフリーのイラストレーター、子供の頃から憧れていた職業だ。今の不景気な世の中じゃ、イラストの仕事だけで食べていけるはずもなく、毎日バイトに追われている。
 イラストの仕事が入るのは、月に3回程度。でもそのうち、1回ぐらい、自分の描きたくない仕事が入ってくる。
 食べないといけないし、描かないといけない。そんなとき、自分はイラストレーターなんだって、強く意識する。プロ意識だけあれば、案外なんとかなるものだ。
 時計を見れば、既にもう10時だ。近所のラーメン屋は閉まっている。牛飯は昨日食べたし、ハンバーガーは一昨日、カレーは一昨々日に食べた。こう毎日お世話になっていると、外食に行きたいとは思わない。
 私は這うように冷蔵庫へ向かった。たかだか6畳の部屋が、今日はサハラ砂漠のように広く感じる。これは世界だ。私の体は、テーブル山を越え、リモコン峠で一服してテレビを付け、座布団平原を踏みしめ、暗いキッチンを抜けた。そして、ようやく念願の冷蔵庫の前へと移動した。
 夕食に出来るものが入っていることを期待していた。冷蔵庫のドアを開けたとき、期待は失望に変わった。梅干しと牛乳しかない。私はあいにく、これだけで生きていける人間ではなかった。
「参ったなあ…」
 部屋の方へ振り返る。と、いつも私が座ってる座布団に、いつの間に入り込んだのか、1匹の猫が座っていた。雪のように白い猫だ。首輪もつけていないところから見ると、野良のようだ。
「あれ、猫。窓閉め忘れたかな」
 といっても、ここは4階だし、猫がそうそう入って来られる高さではないが。独り言をつぶやいたのがいけなかった。猫は私の方を振り返り、尻尾をぱったぱったと振りながら、たしかにこう「言った」のだ。
「うむ、窓が開いておった。不用心だのう」
 猫の声は細く、美しかった。声優でも飯が食えるかも知れない。最初、その声の主がどこかにいるかと探したが、目の前の猫以外に入ってきた客はいなかった。テレビの音声でもない。
「開いてた?」
 誰へともなく返事をした。それを聞かず、このまま追い出してしまえば、何も起きなかったかも知れない。猫は私の声を聞いて、頷いた。
「お主、驚かぬのな?」
 驚いたことは驚いた。しかし、別段騒ぎ立てるほどのことだとも思わなかった。 猫が喋る話なんて、漫画なんかではよくあるし、漫画というのは人間の想像を元に描かれるものだ。想像は大体、現実になる。
「はい、どいてね」
 私は猫を抱き上げて、座布団からどかした。テーブルの上に、確かデリバリーピザのチラシか何かがあったはずだ。また太ってしまうけど、これで妥協するしかない。
「何をするのじゃ。年輩者はもっといたわるものだと、習っておらぬのか」
 猫は不機嫌になってしまったようだ。畳に降ろされたとき、座ってこちらを睨み付けた。漫画の主人公ならば、ここで「言葉を喋る猫なんて珍しい!」といって騒いだりするんだろうか。あいにくと、私は面白みの欠片もないただの女の子だし、そんなことで騒いだりしない。
「あ、もしもし、ピッツァマンですか」
 猫を無視して、私は電話を始めた。一番安くて美味しいメニューを注文する。無視されたのが、よっぽど面白くなかったのか、猫はしかめ面で近寄ってきた。猫のしかめ面なんて、初めて見たけど、けっこうかわいい。
「お主、聞いておらぬのか」
「ソーセージハムでお願いします」
「無視をするな、小娘」
「サイズは、えーと、Sで」
「せめてこちらを向かぬか」
「あ、サイドパックサービスですか。じゃあ、唐揚げお願いします」
「いい加減にせぬと怒るぞ」
「じゃあ、はい。住所は、えーと…あ、登録してありますか。じゃあ、お願いします」
 ぴっ
 携帯の通話を切った私は、電話をテーブルの上に置いた。猫はどんどん不機嫌になっていく。
「で、あんたは何?なんでここにいるの?」
 優先順位的に高い仕事が終わった私は、猫の方へと向き直った。
「ワシは、そうじゃな。猫大使とでも言っておこうか」
「猫大使?」
 聞かない名だ。妖怪の類だろうか。
「そうじゃ。遠く、冥界よりやって来た。人の世に、大使として派遣されてきた、死の世界の住人なるぞ」
 猫大使は満足げに頷いた。これは面白い。たかだか猫のくせに、冥界から来たとは大きく出たものだ。
「へえ。じゃあ、悪魔なんだ?」
「そのような下賤なものと一緒にするでない。ワシはれっきとした貴族の産まれよ」
「ふーん。貴族か〜」
 正直、どれだけ偉いのかわからない。自称貴族なんてのは、どこの世界にもいる。大体、猫の姿をした貴族というのはどうなのだろうか。
「じゃあ、魔界の貴族さんなら、私の願い叶えてよ。大金出すとかさー」
 大きく伸びして、私は猫に言う。
「どうして通りすがっただけのワシが、そんなことをせねばならんのだ。後、魔界ではなく、冥界だ」
 どうもしゃくに障ったらしく、猫大使が文句を言う。
「乙女の願いを叶える気がないなら、なんでその乙女の部屋にいるのさ」
 暴論だ、と自分でも思う。他にもいろいろして欲しいことはある。家事をする召使いが欲しいとか、かっこいい彼氏が欲しいとか。その中でも、大金は結構簡単な問題だと思う。だって、他人が関係しないし。
「窓が開いていたから入ってきたまでじゃ」
「あのね。人間の世界では、勝手に家に入ってくるのは、泥棒か願いを叶える何かだけなんだよ」
「う、うむう?そうなのか?」
「そうだよ。サンタさんだって、枕元に立つ神様だって、人の願いを叶えるために来るんだもん。それとも、猫大使は泥棒?」
 どんどん意味不明な論理が組み立っていく。猫大使はあからさまに戸惑っているようで、尻尾がぱったぱったしている。
「様をつけろ、小娘よ。しかし、そのような決まりがあるとは、難儀な。人間社会はこれだから面倒くさい」
 信じてしまったようだ。ありえない。この猫は、よっぽどお人好しなんだろう。
「今は何の準備もしておらん。冥界に戻れば、願いを叶えることなど造作もない」
「じゃあ、一旦帰ってから戻ってこればいいじゃん」
「そうもいかん。ワシは人間の世界で一年間、大使として働かねばならん。おいそれと戻るわけにもいかんのだ」
 どうも、この猫にもいろいろ事情があるらしい。面白い。
「しかし、小娘、お主は…」
 ピンポーン
 チャイムが鳴った。私は立ち上がり、玄関へと出た。
「ピッツァマンです。配達に伺いましたー」
「はーい」
 外から、聞き慣れた声が聞こえる。ドアを開けると、昔は同級生だった男が立っていた。
「羽道さん、ちょっとまず持って」
 ピザの箱を差し出してくる。私は箱を受け取り、適当な場所に置いた。こいつは、野池小太郎。昔はコタロー、ハルミと呼び合う仲だったが、今はもうそんなこともない。ピザ屋でバイトをしていると知ったときには、少し驚いたが、今では月1程度でピザを頼むので、頻繁に顔を合わせている。
「はい、代金」
 財布の中に入っていたお金を渡すと、小太郎はすぐにお釣りを出した。
「羽道さん、猫飼い始めたんだ?」
 奥を見て、小太郎が言う。見れば、猫大使がそこに鎮座していた。
「うん、まあ、そんなようなもの」
 言葉を濁す。猫大使の言っていたことをそのまま言っては、変人扱いがいいところだ。上手くごまかす。
「はい、じゃあ受け取りました。こちら伝票になります。あざーす」
 小太郎は頭を下げ、出ていった。次に配達がないときには、少し雑談をしていくが、彼はすぐに帰っていった。忙しいのだろう。
「さーて、ピザピザ」
 私はピザをテーブルに広げた。
「おい、小娘」
 また無視されるのを恐れてだろうか。猫大使が、高圧的な態度に出た。
「ああ。あんたも食う?」
 ピザを切り分け、適当な皿に載せる。猫大使は、じっとピザを見て、皿を2本の手で受け取った。
「勘違いするなよ。これでワシが買収されたと思われてはかなわん」
「はいはい。買収って、何をどう買収するかわかんないけど」
「そこは、それ、ほれ、あれだ。恩返しを期待しておるのだろう?」
「ピザ一切れ分の恩返しなんていらないよ。そこまでせこい女じゃないし」
「う、うむ。しかし、このままいただきっぱなしでは、ワシの沽券に関わる」
 かたん
 ピザの皿を置き、猫大使が唸る。
「よし、ここに住んでやろう。少しは役に立ってみようではないか」
 良いことを思いついた、という顔だ。でも、そんなことはない。猫を飼う余裕なんてないから。
「別にいいし」
 ピザを食べながら、私が返事をすると、猫大使はこの世の終わりのような顔をした。
「お、お主。この、冥界では美丈夫で通ったワシをいらんと申すか?」
「美丈夫ってイケメンのこと?でも猫だし。いらん」
「な、何を言うか。せっかく住んでやってもいいと言っておるのに」
 憤慨している猫大使。猫としてはかわいいが、イケメンだなんて思わない。
「猫大使様、じゃあお願いしますは?」
「へ?」
 私の言葉に、猫大使が目を丸くする。
「住ませてください、でしょ?や、野良になるなら、別に良いけど」
 私の追い打ち。猫大使は、唖然としていたが、すぐに気を取り直した。
「…小娘。貴様、調子に」
「お願いしますは?」
「ワシが、どれほどの力を秘めているか」
「お願いしますでしょ?」
「地を焼き、空を裂き…」
「お願いしますっていいなさいな」
 昔から母にやられた手だ。言い訳をしようとすると、母は必ずそれを遮り、私に反省を促したのだ。これは応用が利くから好きだ。
「…お願いします。住ませてください」
 とうとう猫大使が折れた。私は、平静を装ってはいたが、内心小躍りしたいほどに嬉しかった。猫とは言え、話し相手も出来たし、役に立つと言うことは何かしてくれるのだろうから。猫大使は、プライドが傷つけられたようで、腑に落ちないと言った表情でピザをむしゃむしゃしはじめた。
 こうして、猫大使と私の生活が始まった。楽しい生活になるか、そうじゃないか。それはまた、いつか。


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