キミとボク
拝啓、長ったらしい時候の挨拶など、僕には思い浮かべることはできません。出すことの出来ない手紙は、名前も覚えていないキミのために書きました。
もう長いこと会っていませんね。相変わらずお元気でしょうか。ボクはキミを見なくなってから、ずいぶんとその思い出に浸かっている気がします。
甘いミルクの匂い。かわいらしいリボン。フリルのスカート。美しいブロンドヘア。
あの日に出会ったキミは一体どこに行ってしまったのでしょう。
2人で口笛を吹いて歩いた並木通り。大きな貝がたくさん流れ着いた海岸。たくさんのリスや鳥がいた小さな林。
あのころに見た風景はどこに行ってしまったのでしょう。
ただ、ボクの心には口笛の音が残っています。どこか寂しげなキミの口笛。ボクは横で、習いたてのアコーディオンを演奏していた。指の動きまで、鮮明に思い出すことが出来ます。
あのころ、ボクは裕福な家の子供でした。都会から引っ越した先は田舎町。父が転勤してしまい、家族はそれについていかされたのです。
ボクは父のことを恨みました。父が働かなければ家は成り立って行かないことぐらいわかっていましたが、親しかった友達や見慣れたあらゆるものから離れると思うと、それはとても寂しかったものです。
ボクはそのころ小学3年生だったような気がします。親の趣向でヴァイオリンとアコーディオンを習わされ、自分の好きなことにつぎ込む時間などほとんどなかったような気もします。なぜなら、ボクはアコーディオンの弾き方とヴァイオリンの弾き方を先生に習っている記憶ばかり持っているからです。
学校も変わりました。知らない人ばかりでとても不安でした。学校の先生はにこにこ笑ってくれましたが、ボクはその笑顔に裏があると本気で考えていました。
帰り道、ボクはキミに初めて会いました。自分の家への道を覚えることができず、迷ってしまったとき、キミはボクの前に姿を現しました。
最初に交わした会話はなんだったでしょうか。キミが言った言葉は「こんにちは」だったかも知れない、「あなたはどこの子供?」だったかも知れない。よく覚えていません。 すぐに仲良しになったボクたちは、あちこちに遊びに行きました。海岸で貝を拾ったり、台所からくすねたクルミをリスにあげたりしましたね。しかし、運命とはとても皮肉なものです。キミはボクと会って一月もしないうちに引っ越すことになりました。
最後にキミの家の庭で演奏したアコーディオン。キミは楽器を持っていないと言って、口笛を吹きましたね。特に何を演奏するわけでもなかったけど、一度限りの即興曲が、ボクたち2人を結びつけました。
今でもそのリズムを容易に思い出すことが出来ます。どこか楽しくて、寂しい曲に仕上がった。ボクたちは、天才ではないだろうかなどと言い合いながら、別れの寂しさも忘れて笑いあったように覚えています。
あれから20年は経ったでしょうか。ボクは久々に骨董屋でアコーディオンを買いました。別段何の考えもありません。ただ、懐かしさからの衝動買いです。
突然浮かんできた思い出、昔弾いた一度限りのメロディ。それはまるで水底から浮かんでくるあぶくのように、ボクの手を動かしました。再現性は怪しいものですが、良くできたものだと思います。
ここにキミの口笛が欲しい。ボクはキミを探したいと思いますが、どこにキミがいるか見つけることが出来ません。
甘いミルクの匂い。かわいらしいリボン。フリルのスカート。美しいブロンドヘア。
あの日に出会ったキミは一体どこに行ってしまったのでしょう…
もういないかもしれない貴方へ 思い出せない思い出より
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